2019年2月2日土曜日

「倭武王」と鉄器と古墳

仲哀ーー応神ーー仁徳ーー履中ーー反正ーー允恭(済)ーー
安康(興)ーー雄略(武)ーー清寧ーー

と、皇室系図はつづく時代である。

この時代の古墳は、平安時代の延喜式に、下図のように、百舌鳥・古市古墳群の天皇陵とが記されているが、現在の考古学研究による築造順と、系図順が整合していない。


島泉丸山古墳(雄略陵)


武(ぶ)、または倭 武(わ ぶ)、「倭王武」ともいう。
5世紀後半(古墳時代中期)の王である。
倭の五王」のうち、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため、様々な説があるが、「済」・「興」・「武」については研究者の間でおおむね、

(允恭天皇)の子、(安康天皇)の弟で、「倭の五王」の最後の1人「武」は、第21代雄略天皇に比定する説が有力視される。


記紀では允恭天皇・安康天皇が相次いで死去する伝承が記されており、武の上表文に「奄喪父兄(にわかに父兄を失う)」という記述と対応するからである。

辛亥年(定説は471年)作の稲荷山古墳出土鉄剣銘文「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」や,江田船山古墳出土鉄刀銘文が、雄略天皇の和風諡号「オオハツセワカタケル(大泊瀬幼武/大長谷若建)」と対応する人物とされている。


471年のワカタケル大王の実在・在位が確実視されている。(ただし稲荷山古墳では追葬の可能性があり、鉄剣は注意が必要な資料になる)。
「武」という名は実名の「タケル」を漢訳したものと考えられる。
武の遣使年次が記紀の雄略天皇の年次と合致しないが、武は珍・済の時のように吏僚の任官を求めていないこと、武以後に倭からの遣使が途絶えることなどから、武の時代には倭が冊封によらず王権を維持することが可能となったと考えられる。

武光誠は、ワカタケル(=雄略天皇)が中国南朝との交渉の場において、「若武(ワカタケル)」と名乗らなかったのは、若いの語が国内では勇敢の意味であっても、漢字的には「若い」という語感によって外国君主から軽く見られかねないため、避けたと考察している。
江田船山古墳の鉄剣


五王の時代は、百舌鳥・古市古墳群のような巨大古墳が築かれた時代にあたる。これは国内で鉄器の利用が進み、大陸と対等の外交渉をするために築かれたと思われる。
その末期になる武王の古墳(雄略天皇陵)は、堺の大仙陵古墳(仁徳陵)より小さくなっている。宮内庁により大阪府羽曳野市島泉8丁目にある丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に治定されている。遺跡名は「島泉丸山古墳(高鷲丸山古墳)」・「島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)」で、直径75メートルの円墳・一辺50メートルの方墳の2基からなる(古墳2基を合わせて治定されている)。
この時代は倭国で本格的な鉄器生産が発達して、国内勢力の統一や、海外への派遣も可能になった時代でした。
だから大陸に対抗して、巨大古墳をつくる必要性がなくなっていたと考えられる。
その後仏教が伝わり、権力争いも続き、古墳よりも仏閣造りの時代にかわっていく。
https://ereki-westjapannavi.blogspot.com/2019/02/blog-post_3.html

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