2019年2月24日日曜日

半跏思惟像(更新)




 京都 広隆寺と奈良 中宮寺(法隆寺東伽藍)に、国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像がある。広隆寺には宝冠と泣き顔と二つの像がある。
この三像はいずれも木製で国宝である。
その他に大阪 野中寺には、重要文化財の金銅製像があるようだ。
宝冠弥勒菩薩
広隆寺(京都)
国宝


泣き弥勒菩薩
広隆寺(京都)
国宝



弥勒菩薩(如意輪観音)
中宮寺(奈良)
国宝
寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である

広隆寺、中宮寺は共に、七世紀飛鳥時代に創建された聖徳太子ゆかりの寺である。
広隆寺は太子が本尊として祀られており、渡来系氏族の秦河勝が創建と伝えられる。筑紫の粕屋評連の舂米連広国が献納した国宝の梵鐘もある。
中宮寺は、太子の母・間人皇后あるいは太子ご自身が創建とされている。
仏像の作者は、定かではないが、仏教伝来間もない時代なので、作者も渡来系氏族の人物かも知れない。用材は朝鮮半島から献上されたアカマツを使って、日本で彫ったものと考えられる。
 半跏思惟のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、欠かすことの出来ない地位を占める作品である。
また国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれている。
 半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な造形は、いかにも人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえている。

斑鳩の里に伝統千三百余年の法燈を継ぐ中宮寺の、この像は、その御本尊として永遠に私たちを見守ってくださっている。
泣き顔のほうは、俗人の悩みを真剣にうけとめて、共に苦しみを分かち会ってくれている姿である。
ロダンの考える人のポーズも半跏思惟であり、テレビの健康番組によると、腰痛・冷え性・睡眠改善などの効果がある姿勢らしい。
聖徳太子信仰のわが家では、中西金作氏が昭和初期に織られた中西式電気博多織の広隆寺宝冠弥勒菩薩像を、居間にかざっている。





現在、韓国には、広隆寺の弥勒とそっくりの仏像が、ソウル中央博物館に存在する。金銅弥勒菩薩像がそれで、昭和51年に日本でも展観された。素材が木と金銅の違いはあるが、瓜二つというくらいよく似ている。

2016年、東京国立博物館4月20日に開かれた特別展主催者による記者発表会では、アジア文化芸術協会会長の大橋一章・早稲田大学名誉教授らが半跏思惟像の歴史や見どころを紹介した。


①製造年代がなぜ分かるか

韓国の半跏思惟像はソウル・韓国国立中央博物館が所蔵する国宝78号像。銅造で高さ83センチ、6世紀後半の作とされる。韓国を代表する国宝だ。

日本からは奈良・中宮寺門跡に伝わる国宝の半跏思惟像。クスノキ材で高さ約123センチ。7世紀後半の作とされる。50円切手のデザインにもなって親しまれてきた。

両像には製造年月の銘文がないのになぜ「6世紀後半」とか「7世紀後半」と分かるのか。大橋名誉教授によると、基準となる同時期の他の作例との比較などから、おおむね時期が特定されるという。

②日本でどうやってつくったか

古代の日本に仏教が伝来したのは6世紀。最近では538年説が有力だ。百済の聖明王から経典などがもたらされた。しかし、当時の日本ではまだ独自に寺や仏像を造る技術がなかった。577年、百済から技術者集団(造寺工や造仏工)がやって来る。彼らに学んで日本での本格的な仏像づくりがスタートした。「技術を習得して一人前になるまでに10年ぐらい修業しただろう」と大橋名誉教授は見る。

③どんな名前だったか

半跏思惟像という形式の仏像は、紀元1~3世紀のガンダーラ仏教のころからつくられていた。釈迦が思索する姿を表し、釈迦の名前から当時は「シッダールタ太子像」と呼ばれていた。それが、中国を経て朝鮮半島に伝わると、同じポーズの仏像が弥勒菩薩像と呼ばれるようになる。そして日本では次第に如意輪観音とか救世観音と名前を変えた。地域や時代によって名称が変化している。今回の展覧会では「弥勒」や「観音」の名は付けず、単に「半跏思惟像」と記している。

「日韓関係の新しい一歩になれば」④なぜ「広隆寺の弥勒菩薩」が出品されないか

日本で有名な半跏思惟像といえば、中宮寺のほかに京都・広隆寺のものがある。「広隆寺の弥勒菩薩」として親しまれている。なぜ今回の展覧会には出品されないのか。記者発表会ではそんな質問も出た。

主催者側の説明によると、広隆寺の弥勒菩薩はアカマツ製。当時の日本の仏像はクスノキ製がほとんどだったので、異例だ。朝鮮半島からの伝来仏ではないかという説も根強くある。

今回の展覧会は、古代の両国の文化交流を考えようというのがねらい。6世紀に韓国でつくられた像と、その影響を受けて7世紀に日本でつくられたことがはっきりしている像を並べることに意義があるという。「百済から習った仏像づくりを50~60年かけて日本化した」(大橋名誉教授)のが中宮寺門跡の像であり、両方の像を見比べながら類似や違いを味わってほしいというわけだ。

2体の「半跏思惟像」に象徴されるように、古代の日本と朝鮮半島の関係はきわめて緊密で往来も盛んだった。ところがこの数年、関係が冷えこむ。

今回の合同展のアイデアは2年ほど前から民間ベースで動き出していたという。昨年12月の「日韓合意」で交渉が後押しされたそうだ。同展の実行委員会には千玄室・裏千家大宗匠、鎌田薫・早稲田大学総長、榊原定征・経団連会長、森喜朗・元首相、宮田亮平・文化庁長官ら、政財界や文化関係の重鎮の名前が並ぶ。

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