2021年5月13日木曜日

5.15事件と香椎温泉

 五・一五事件

1932年の事件だから、来年で90周年となる。昨日は犬養の歴史番組をみた。わたしが生まれて6年後の事件で、号外などみたかすかな記憶がある。

この事件の背景は、浜口内閣ロンドン海軍軍縮条約を締結したことにあった。その際に全権大使だったのが元総理の若槻禮次郎である。浜口内閣が崩壊すると、若槻が再び総理となり第2次若槻内閣が誕生した。そのため、本来なら若槻が暗殺対象であったが、その若槻は内閣をまとめきれず1年足らずで総理を辞任してしまい、青年将校の怒りの矛先は若槻ではなく政府そのものに向けられることになった。

そもそも犬養は、軍縮条約に反対する軍部に同調して、統帥権干犯問題で浜口内閣を攻撃し、軍部に感謝されていた側の人間である。しかし、その政府の長に犬養が就任したため、政府襲撃事件を計画していた青年将校の標的になってしまった。

犬養は旧知の中国要人を通じて、善後策を講じていたが、この裏交渉も、彼の死によって絶たれた。

犬養毅


1932年(昭和7年)5月15日は晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいでいた。この日、夫人は外出していた。

17時頃、護衛の巡査が走り込んできて暴漢侵入を告げ、逃げるよう促した。犬養が「逃げない、会おう」と応じたところに、海軍少尉服2人、陸軍士官候補生姿の3人からなる一団が乱入してきた。襲撃犯の一人は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引いた。

しかし不発に終わり、その様子を見た犬養は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう」と言い一団を日本間に案内した。日本間に着くと、彼らに煙草を勧めてから、「靴でも脱げや、話を聞こう」と促した。そこへ後続の4名が日本間に乱入、「問答無用、撃て」の叫びとともに全員が発砲した。

西方浄土筑紫嶋: 曙のつどい (ereki-westjapannavi.blogspot.com)





香椎温泉の碑

5.15事件最初の謀議は香椎で行われました。
 5.15事件とは、1932年5月15日、海軍の青年将校らを中心に犬養毅首相らを暗殺した反乱事件です。
 この当時、昭和維新をスローガンとする国家革命運動が勃発します。背景として、政治家が国民を無視して私利私欲に走っており、天皇親政とした政治の刷新をしなければ国家存亡の危機という意識が高まります。
 1928年3月には、日本海軍内に藤井斉を中心に革命行動組織の王死会が結成されます。
 しかし、海軍内で危険人物とマークされ、大村航空隊教官として長崎に赴任します。
 1930年12月、一人一殺主義の僧侶井上日召、中曽根康弘元首相の参謀四元義隆らに、藤井斉が九州で出会った同志らを引き合わせた場所が香椎温泉旅館です。近所には橋本旅館 大間旅館が有りました。
 その後、1932年2月に血盟団事件、同年5月に5.15事件が起こり、歴史上では香椎温泉旅館での謀議が5.15事件のための初会合と位置づけられています。
 香椎温泉旅館の跡地は、博多バイパスのスターバックスから入ったところにあります。現在はマンションとなっており、曙のつどいという碑が建てられています。


計画者:藤井 斉(ふじい ひとし、1904年明治37年〉8月3日 - 1932年昭和7年〉2月5日)は、日本海軍軍人海兵53期卒。五・一五事件を起こした海軍青年士官の指導者で革命児と称された人物であり、また、日本海軍搭乗員最初の戦死者の一人である。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐1904年明治37年〉8月3日長崎県平戸に生れる。本籍佐賀県

藤井は目的達成には指導者層の変革が必要であるとし、実力行動を考えるようになり、香椎温泉などで会合をひらき、井上から四元義隆を通じて1932年(昭和7年)2月の決起を伝えられ、藤井は同意を与えていた。藤井本人は1月に発生した第一次上海事変に出征することとなり、実力行動に移ることなく戦死した。

藤井の戦死は2月5日であったが、井上を中心とした血盟団事件2月9日井上準之助暗殺で始まった。

海軍側の同志であった三上卓古賀清志らは5月15日犬養毅首相総理官邸において射殺した(五・一五事件)。

藤井 斉

実行者:首相官邸襲撃隊のみ記載

犬養から端を発した統帥権干犯問題もさることながら、犬養の死と日本政府の対応も、日本の命運に大きな後遺症を遺し、その後「大正デモクラシー」と呼ばれることになった大正末期からの政党内閣制が続いていた昭和史の分水嶺となった。

事件の翌日に内閣は総辞職し、次の総理には軍人出身の齋藤實が就任した。総選挙で第1党となった政党の党首を総理に推すという慣行が破られ、議会では政友会が大多数を占めているにもかかわらず、民政党寄りの内閣が成立した。

大正末期から続いた政党内閣制は衰えが始まり、軍人出身者が総理に就いたが、まだ議会は機能していた。しかし、これ以後は最後の存命している元老の西園寺公望(1940年没)や重臣会議の推す総理候補に大命が降下し、いわゆる「挙国一致内閣」が敗戦まで続くことになった。

この時期は武官または軍部出身者が総理になることが多く、終戦まで文官の総理は広田弘毅近衛文麿平沼騏一郎だけである。

五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの世論の万単位の嘆願で軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、彼らは満州や中国北部で枢要な地位についた。

五・一五事件の海軍側軍法会議の判士長であった高須四郎は「彼らを死刑にすれば彼らが殉教者扱いされるから死刑を出すのはよくないと思った」などと軽い刑に処した理由を語った。

しかし現職総理を殺した反逆者やそれを焚きつけたテロリストらに死刑を適用しなかったことが、さらに大がかりな二・二六事件の遠因となった。

この事件の後、浜田国松斎藤隆夫などは反軍政治を訴えたが、大抵の政治家は反軍的な言動を差し控えるようになった。新聞社も、軍政志向への翼賛記事を書くようになり、政治家は秘密の私邸を買い求め、ついには無産政党までが「憎きブルジョワを人民と軍の統一戦線によって打倒する」などと言い始めた。

後の翼賛選挙を非推薦で当選した政治家たちは、テロや暗殺にこそ遭わなかったが、軍部から選挙妨害を受け、さらに大政翼賛会に参加した諸政党からも言論弾圧を受けて、この後の日本は、軍国主義一色の日本になってしまった。

ラジオアーカイブスによると、ちょうど来日中のチャップリンが、犬養毅の3男と大相撲を観戦中に事件を知らされ、一緒に首相官邸にいったそうだ。
いまも相撲場所中だから、同じ時期だ。さぞ驚いたであろう。
2度目の来日直前にも2.26事件がおきたそうで、テロ国日本の強い印象を持っていたようだ。



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