2022年6月19日日曜日

日向の飫肥城 と曽我兄弟と犬房丸

飫肥城門

 工藤祐経の子・犬房丸は、九歳の時に父が曽我兄弟により敵討ちとして殺害された際に泣いて訴え、源頼朝が助命を考えた曽我五郎時致が処刑されるきっかけになったといわれている。

犬房丸は後に工藤の本家の伊東家を継ぎ、伊東祐時と名乗り承久の乱で活躍する。
その子孫は日向に移り、島津氏に服属する形で勢力を拡大した。工藤祐経は源頼朝から日向の荘園を恩賞として与えられるなど、もともと地縁はあった。
 室町時代になって島津氏が一族の内紛で混乱すると島津氏から自立し、300年に渡り島津氏と日向支配を争う。
戦国初期になると、ますます隆盛になり、伊東義佑の時代には、ほぼ島津氏を追い出して日向の支配権を固める直前までいくが、好事魔多しで木崎原の戦いで義佑は3000の大軍を率いながら、戦争の天才若き島津義弘の300の小勢に大敗し、伊東氏は一気に衰亡の道を転落していく。
常勝島津四兄弟に追われて大友宗麟を頼るも大友氏も耳川で大敗し、伊東氏の敗亡は決定的になる。

 義佑の息子佑兵はわずかな家臣と共に四国、近畿を流浪し窮乏するが、播磨まで流れたところで秀吉に取り立てられ、山崎の戦いを武功をたて、秀吉の九州征服戦では案内役として活躍、旧領のうち飫肥を回復し、その後関ヶ原の戦いでも東軍に属して生き残り、大名として明治維新まで続き、維新ではかつての敵島津に味方して官軍となり、子爵となっている。

飫肥城跡の歴史資料館には工藤祐経から続く伊東氏の歴史が展示されている。
今年9月25日まで、『鎌倉殿の13人』に合わせて工藤祐経について紹介する企画展が行われている。
かつて『曽我物語』が巷間で人気を博していたころ、飫肥や伊東氏の領内ではお殿さまのご先祖が悪者ということで大っぴらには楽しむことはできなかったのかもしれないが、今は堂々と楽しめるようだ。
飫肥城下町





日向の飫肥城 : ふるさとナビ(fujino@古賀) (exblog.jp)

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