2022年7月9日土曜日

南九州の旧薩摩藩や旧人吉藩の隠れ念仏

 南九州の旧薩摩藩や旧人吉藩では、三百年にわたり浄土真宗(一向宗)が弾圧されたため、権力の目から逃れて信仰する者や集団が多く、これを隠れ念仏と称した。

また、神道と習合してカヤカベ教のような秘密宗教も派生したが、基本的には本願寺教団に属し、浄土真宗の主流の教えを守った。
薩摩では明治元年(1868年)、廃仏毀釈が行われる。それは徹底的なもので、寺という寺が破壊され、神社に変えられた。その結果、浄土真宗以外の仏教各派も著しく勢力を後退させた。
明治9年(1876年)には真宗禁制がとかれるが、西南戦争が始まったため事実上の解禁はその後になった。
西南戦争以後、仏教空白地域とでも言うべき状態となった旧薩摩藩地域において、浄土真宗本願寺派は猛烈な布教を行い、結果、鹿児島県は維新前とは一変し、かえって浄土真宗一色になった。
しかし、解禁後も新しく出来た本山主導の寺と、隠れ念仏のネットワークの間にはさまざまな軋轢があったという。
鹿児島県生まれで、京セラの名誉会長でもある稲盛和夫は、4歳か5歳だった昭和12年(1937年)頃に自身が隠れ念仏を体験した。
西本願寺もあったにも関わらず、その頃はまだ隠れ念仏が色濃く残る地域だった小山田には、稲盛の父方にあたる祖母が住んでおり、子供たちに仏の南無阿弥陀仏という感謝の念を教えるための通過儀礼があった。
幼い稲盛は父に連れられ日没後、暗い山道を神秘的で恐ろしいような思いをしながら、提灯の灯りを頼りに父親の後を必死で付いていき、村はずれにある登った先の小さな山小屋のような一軒家に連れて行かれる。
奥まった押入れの中に立派な仏壇が置かれており、その前で袈裟を着た僧侶らしき老人が一人、座って静かに低い声でお経を上げていた。子供たちはその後ろに正座させられ、お経が終わると、全部で4、5人いた子供は並ばされ、一人ずつ仏壇に線香を上げて拝むよう指示される。僧侶らしき老人は1人ずつ短い言葉をかけ、稲盛の父には「ああ、この子はもう連れてこなくていいですよ。今日のお参りで済んだから、明日から朝と晩、仏壇に向かって、なんまんだ、なんまんだ、ありがとうと必ず唱え仏さんに感謝しなさい。生きている間それさえすれば、仏さんが守ってくれるから」と告げ1回でお墨付きを与え、幼い稲盛は、それが免許皆伝と認められたような、何かの試験に合格したような気がして、誇らしくも嬉しく感じたという。
成功後の稲盛の偉大な社会貢献は、幼い頃の隠れ念仏から生まれたようだ。
写真の説明はありません。
射場 総司、宿理 英彦、他10人

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