戦後80年で、大勢の人の記憶が報道されている。大正15年生まれの私の記憶をまとめてみる。
日米開戦は旧制福岡中学校3年生の時で、軍事教練が強化されたが、もう不安のほうが強かった。
旧制福岡高校では3年の制度が2年に短縮され、夏休みもなく、学徒動員では佐世保海軍基地の弾薬庫工事や三菱化成工場のプラスチックガラス工場での作業に動員された。
徴兵検査も1年は早く実施され、乙種合格となったが、兵役は理系学生のため延期されて、九州帝国大学入学を許された。
大学では、百武元海軍大将が総長となり、海兵式敬礼を要求し、3年を2年間に短縮するという計画で、休日なしで授業が開始された。
沖縄陥落、福岡大空襲と続き、自宅も少し被害をうけた。
その後、広島、長崎の原爆投下とつづき、ついに無条件降伏の敗戦となる。
8月9日は、小倉から長崎に移動する原爆搭載のB29が福岡上空を通過する時も、空襲警報は出ていたが、講義は継続されていた。
長崎原爆投下の直前に落とされたら落下傘爆弾(ラジオゾンデ)を、翌日九州大学で分解調査することになり、その作業に参加したのが、貴重な体験であった。
敗戦直後、西部軍の貯蔵食糧を市民に分配する夜間作業にも動員され、徹夜作業をした。
敗戦後、教師も学生も混乱状態となり、2ヶ月の特別休講となった。
特別休講中、香椎の千早に出来た「米軍キャンプ基地」の作業員に、地元隣組から動員されて、2ヶ月ほど働いた。少し英語が話せることから、PXでの食品の整理作業であったが、比較的楽な仕事で、米語の勉強にもなった。
古賀市でも、戦後80年特集展が開かれている。中会議室では原爆とその被害の展示が、今年は大きく展示され、その一廓で、私が去年の冬に講演した「原爆とラジオゾンデ」のビデオが上映されている。
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