2013年6月6日木曜日

秀吉と官兵衛の「中国大返し」の一週間


 六月六日から十三日までの一週間で、羽柴秀吉と黒田官兵衛らが明智光秀討伐へいわゆる「中国大返し」を行った。
 六月四日に水攻めしていた備中高松城(岡山市)は、清水宗治が切腹して落城し、毛利氏と誓紙を交わして正式に和睦停戦が成立。

これにより秀吉は堤を切り崩して水を抜く。秀吉は一刻も早く上方へ戻りたいが、下手に動くと異変を察知される恐れがあるため、毛利氏の動きを注視しながら何食わぬ顔をして五日を過ごす。
 この間に秀吉は味方を募るべく書状を発し、六日の朝に毛利氏の動きに変化が見られないのを確かめると、急ぎ軍令を発して陣を引き払い、姫路を目指した。
 悪天候のなか、秀吉は無我夢中で1日で姫路城に帰り着いたようにいわれていたが、最近の調査では3日かけていたようだ。

秀吉は姫路城の蔵に蓄えてあった米や金銀を全て配下の将士に分け与えると、兵の士気は大いに高まった。
つまりこの城にはもう戻ってこないぞという決意を、諸士に伝えたわけだ。
秀吉は浅野長政(当時長吉)を留守に置くと、全軍一丸となって九日に姫路を出陣した。
 夜遅くになって兵庫に着くと、一隊を淡路島に派遣して明智方の洲本城(兵庫県洲本市)主・菅平右衛門尉達長を攻撃させ、自身は十一日の朝に尼崎へ到着した。
 秀吉は大坂城の織田信孝・丹羽長秀や有岡城(伊丹市)の池田恒興らに参陣を求め、十二日に摂津富田まで陣を進めて軍議を開き諸将の部署を定めると、午後には早くも先鋒隊が天王山を巡って明智勢と小競り合いを起こします。
 十三日になって織田信孝・丹羽長秀が合流、ここに山崎合戦の幕が切って落とされた。

2013年6月5日水曜日

黒田長政

いま黒田官兵衛がブームだが、今日は長政のことを小和田さんが書いている。差し当たりのない内容で、特に新しい事実もないが、最後に「釈迦の間の異見会」という行事を行ったというのは、初めて知った。月に3日だけ、部下と直接あって話す機会を設けていたそうだ。

2013年6月4日火曜日

ゴルフコースの改善

和白コースのように古いコースは植木が太りすぎて、日当たりの悪い場所が増えてくる。
古いメンバーは植木を切るなというが、若いメンバーは暗部を嫌う。対立の議論がされていたが、次第に古いメンバーの数がへり、若いメンバーの意見が取り入れられてきた。
これで人気がでて、値上がりすれば良いのだが、効果があるだろうか?

2013年6月3日月曜日

織田信長と伊達政宗

草履を温めていた小僧を、しりに引いていたかと叱りとばしたのは、織田信長の話で有名だ。
今日の講談で、伊達政宗も同じことをしていたという。その小僧は僧侶となり、苦労して高僧となった。
のちに瑞巌寺の和尚となり、政宗はその弟子になったという。
藤吉郎の話を真似た作り話か、本当の話か?

2013年6月2日日曜日

■【本能寺の変】天正十年(1582)6月2日

備中の秀吉を支援にむかうはずの明智光秀が謀反し、京都本能寺に織田信長を攻撃し、続いて二条御所に信忠を襲う。
光秀は福知山から京都にむかう
信長は本能寺に・信忠は妙覚寺にいた。
信忠は急遽二条御所に移る
信長からの逃げよという連絡がおくれる
信長は炎上する本能寺で、信忠は二条御所にて相次ぎ自刃。
信長享年49歳、信忠享年26歳。信忠が逃げよという司令で北へ逃げのびていれば、歴史は変わっていたかも知れない。
明智軍ははじめ本能寺のみを取り囲んだ
信忠は二条御所に篭城して自決した
本能寺再現図

高野山攻めに赴いた織田勢は信長死去の報に退却、高野衆に反撃され痛手を受ける。
イエズス会巡察師の記録に弥介が本能寺から二条御所に伝令した記録がある
またこの報に接した徳川家康一行は急ぎ国元へ向かい難を逃れたが、別行動した穴山梅雪は山城宇治田原で一揆に殺される。

美術館

昨日福岡市美術館に現代アート展を見に行った。雨模様の天気で、人影は少なかった。建物も陰気くさくて、美術鑑賞には不適な感じである。
梅雨時には、金沢21世紀美術館やフランスのルーブル美術館分館のような開放的な建築なら、もっと人も集まり易いだろう。

2013年6月1日土曜日

本能寺の変前夜(改訂)


本能寺の変の前夜、梅雨どきはなにかと心境の変化が大きい時期だ。光秀は愛宕神社での戦勝祈願のとき、「時は今」の句をよんだという。



明智光秀も、この時期にいろんな事件がかさなって、謀反の心をおこしたのだろう。
家康接待の席で信長から激しく折檻された
波多野氏に人質として母親を出したのに、信長の攻撃で母を殺された

その動機でのなかでもっとも強いのは、急に信長が四国征伐を決意したことだといわれている。
光秀の娘が長宗我部に嫁いでおり、光秀は信長との交渉役として働き、土佐一国で元親は信長に従うことを約束していた。
しかし信長が急に四国全土を自分のものにすると言い出したため、光秀の立場はなくなった。
元親がそのことを嘆いて書いた手紙が最近みいだされた。
当時光秀の家臣だった斉藤利三も同じように長宗我部と親戚関係だった。

それで最初は謀反に反対していた光秀の家臣団も、信長への謀反に同調意見となり、ついに本能寺の変はおこった。



しかし光秀の経歴をよくみれば、浅野氏・足利氏に仕えながらやがで離れて行き、信長にも絶対的な忠誠心をもっていたわけではない。源氏の系譜につながる土岐家や明智家の再興を目標としていた人物だから、忍耐しながら計略をめぐらし、謀反の機会をさぐっていたといえる。

この時期、信長の武将は皆遠方の地に出陣しており、京都近くにいるのは明智軍がけであった。このチャンスをとらえたからこそ、
三日天下ながらその目標をなしとげた。

「心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜しまじ名をも惜しまじ」
そのためイエズス会宣教師のきびしい光秀の人物評価も遺されている。
「はかなさを誰か惜まむ朝顔のさかりを見せし花もひととき」