2013年6月1日土曜日

本能寺の変前夜(改訂)


本能寺の変の前夜、梅雨どきはなにかと心境の変化が大きい時期だ。光秀は愛宕神社での戦勝祈願のとき、「時は今」の句をよんだという。



明智光秀も、この時期にいろんな事件がかさなって、謀反の心をおこしたのだろう。
家康接待の席で信長から激しく折檻された
波多野氏に人質として母親を出したのに、信長の攻撃で母を殺された

その動機でのなかでもっとも強いのは、急に信長が四国征伐を決意したことだといわれている。
光秀の娘が長宗我部に嫁いでおり、光秀は信長との交渉役として働き、土佐一国で元親は信長に従うことを約束していた。
しかし信長が急に四国全土を自分のものにすると言い出したため、光秀の立場はなくなった。
元親がそのことを嘆いて書いた手紙が最近みいだされた。
当時光秀の家臣だった斉藤利三も同じように長宗我部と親戚関係だった。

それで最初は謀反に反対していた光秀の家臣団も、信長への謀反に同調意見となり、ついに本能寺の変はおこった。



しかし光秀の経歴をよくみれば、浅野氏・足利氏に仕えながらやがで離れて行き、信長にも絶対的な忠誠心をもっていたわけではない。源氏の系譜につながる土岐家や明智家の再興を目標としていた人物だから、忍耐しながら計略をめぐらし、謀反の機会をさぐっていたといえる。

この時期、信長の武将は皆遠方の地に出陣しており、京都近くにいるのは明智軍がけであった。このチャンスをとらえたからこそ、
三日天下ながらその目標をなしとげた。

「心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜しまじ名をも惜しまじ」
そのためイエズス会宣教師のきびしい光秀の人物評価も遺されている。
「はかなさを誰か惜まむ朝顔のさかりを見せし花もひととき」

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