2014年9月10日水曜日

国東半島 六郷満山




国東半島には3回ほど旅して、両子寺や富貴寺はお参りしていたが、昨日のテレビで、六郷満山文化の詳細な紹介をみて、仏教の深い史蹟や仏像の多さを再認識した。

国東半島には、中央にそびえる両子山(ふたごさん)から放射状に伸びる谷筋に沿って、武蔵(むさし)、来縄(くなわ)、国東(くにさき)、田染(たしぶ)、安岐(あき)、伊美(いみ)の6つの郷が開け、六郷と呼ばれている。

六郷には神仏習合とゆかりの深い宇佐神宮と三十三力寺霊場があり、観光スポットをすべてを巡るには3~4日かりそうだ。 挑戦してみたいが、体力が問題だ。

2014年9月3日水曜日

徳川信康の死

徳川家康の長男信康の死は、織田信長の命令によりやむなく切腹させられたというのが今までの定説であった。
先日のテレビで、静岡大学名誉教授の小和田さんが新説をだされた。

「家康が浜松城に移り、20歳の信康を岡崎城の責任者としたが、両城の家臣団の間に意見の相違がおこり、対立関係が生じた。
武田信玄が父親を追放したように、信康も父親を排除しようとする動きが生じたので、家康はいちはやく信康を幽閉し、やがて切腹に追い込んだ。」
「今までの説は、江戸中期以後の文献に出てくる話で、家康を東照権現として神格化するために創られた話である。」

戦国史を専門とする一級の学者の説なので、間違いないであろう。

2014年8月30日土曜日

「のろしリレー」(改訂)




 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で31日放映の回から、官兵衛の宿敵で築上町ゆかりの武将、宇都宮鎮房(しげふさ)が登場する。
それに合わせて町観光協会が同日、町内の宇都宮氏関連史跡など約25キロをつなぐイベント「のろしリレー」を実施する。

  イベントは「官兵衛が来る 大平城に上れーっ!」で、自治会や地域おこし団体から参加。
 午前9時半、黒田側が最初に攻めた海沿いの宇留津城の城跡で、ドラム缶のろしに点火。
   花火や発炎筒も駆使し、出城の堂山城、本庄城などがある「城井谷」に沿って、宇都宮氏の詰城とされる大平城までを2時間近くでつなぐ。

  東九州自動車道の整備に合わせて京築地域と大分県北部の活性化と広域連携支援活動を進める「とよのくに連携会議」が9月20日に実施する第2回のろしリレー(苅田町―大分県宇佐市間)のリハーサルも兼ねる。

江戸時代の長崎ー大分間の狼煙にくらべると、ローカルな狼煙リレーである。

2014年8月28日木曜日

軍師の評価

軍師と呼ばれる人物を10名あげて、評価している本を見つけた。
黒田考高:竹中重治:宇佐美定満:太原雪斉:島左近:鍋島直茂:片倉景綱:直江兼統:蜂須賀小六:安国寺恵瓊
3人ははじめて見る名前だ。山本勘兵衛の名前はない。
いまの大河ドラマの黒田考高の評価が一番高いのは当然だ。主君を天下人にした功績は大きいが、あと冷遇される運命にあるのが軍師だ。
太田雪齋も今川家・義元に欠かせない名軍師だったが、その死後は義元の失敗で評価が下がった。しかし幼い家康を教育して、その後の天下人となったのだから、再評価の必要がある。
若くて病死した竹中、敗戦や戦死した軍師の評価は低い。

2014年8月21日木曜日

石垣原の古戦場跡(改定編)

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杵築城天守角






九州の関ヶ原といわれる「石垣原合戦」は、黒田如水軍と大友義統軍の戦いではじまった。
石垣原の決戦図

8月に現地を見学し、12月7日に大河ドラマで放映されたので、画像を追加し再編集をおこなった。




義統は石田三成や毛利輝元の支持で、旧領地奪還をめざして国東半島南岸に上陸し、まず杵築城(木付城)を攻めた。

石垣原の合戦の前哨戦が行われた杵築城の戦跡は、天守閣が復元されている。島津軍が2ヶ月攻めても落ちなかったし、大友軍も攻めきれなかったので、勝山城とよばれている。
写真の説明はありません。
 
 しかし 中津城周辺を制覇した黒田軍が出軍してきたという情報がはいり、城攻めを解いて南下し、立石城に本陣をおき、別府の石垣原で戦陣をひいて待ち構えた。
別府市の小高い実相寺山の西側の公園に黒田如水本陣跡の石碑が立っている。2Kmほどはなれた立石山の中腹に大友軍の本陣跡がある。


石垣原古戦場址の石碑

黒田如水は実相寺山の西側に本陣をおいて対戦した。



黒田如水本陣跡の石碑
黒田軍は井上九郎衛門などの活躍で勝利し、大友側の武将吉弘統幸は討ち死にした。
(統幸は立花宗茂の従兄弟であり、叔母が義統の妻である。また井上と吉弘は旧知の仲であった。)








吉弘統幸墓場の説明板

 統幸が討ち死にした場所に吉弘神社に彼の墓があり、辞世の歌の石碑もある。拝殿の再建は子孫の寄付金で行われたという。



碑文の読み方





吉弘神社拝殿

  



大友義統本陣跡

  
石垣原合戦古戦場の説明板
海雲寺




宗像鎮続の課箇所のある天満天神宮
実相寺山
石垣原の軍団
戦場跡の石碑
 

勉強会での私の姿

大友義統と母里太兵衛の妻は兄妹であったので、母里太兵衛が講話交渉の主役となって、
大友義統の降伏条件を緩やかにして終戦が成立した。


黒田官兵衛軍はそのあと関ケ原から逃げ帰って柳川城の立花宗茂を、加藤清正と鍋島直茂と組んで、降伏させた。さらに島津を攻めるための軍隊を編成し、立花宗茂を先頭に立せた。
しかし徳川家康からの停戦命令がでて、島津攻撃は中止となった。

今山の戦い(8月20日)

■【今山の戦い】元亀元年(1570)8月20日
鍋島信生(のち直茂)が、大友宗麟が差し向けた佐嘉攻めの大将・大友親貞を今山に奇襲して討ち取る。
今山古戦場の碑と大友親貞の墓
この年の三月末、豊後の大友宗麟は肥前佐嘉城(佐賀市)の龍造寺隆信討伐の兵を挙げ、六万(兵数には異説あり)の大軍で肥前へと侵攻しました。宗麟は筑後高良山(福岡県久留米市)に本陣を置き、先陣の立花道雪・高橋紹運は三万の兵を従えて阿祢堤原に布陣、これに筑後の国人衆や肥前の反龍造寺氏勢力が集結して加わり、佐嘉を遠巻きに包囲します。
四月二十二日、隆信と鍋島信生(のち直茂)は三千余騎を率いて大友勢の先鋒に攻めかけ、激しく戦って大友勢を後退させます。局地的には龍造寺勢は勝利しますが、兵数に圧倒的な差があり宗麟の本陣に切り込む事は出来ず、戦線は膠着状態となりました。
七月~八月にかけて大友方の筑後勢が攻めかかりますが、龍造寺勢は必死に防戦して撃退します。好転しない戦況に業を煮やした宗麟は弟(一説に甥)の親貞に三千の兵を与え、親貞は八月十七日に佐嘉城の北西・今山に陣を置きました。対する隆信は納富信景に二千騎を与えてこの方面の押さえとし、翌十八日の夜に成松信勝が忍びの者を放って敵情を探ったところ、親貞は圧倒的な状況に楽観視していて兵の統制も取れていないとの報告がありました。夜襲の絶好の機会と判断した信生は、隆信の許しを得ると直ちに行動に移りますが、城を駆け出た時はわずか主従十七騎だったと伝えられます。一方の親貞は二十日に総攻撃と決定しますが、前夜には酒宴を開いている有様で士気は緩んでいました。

 後から駆けつけた者を合わせて三百騎となった信生勢は夜陰に紛れて迂回し、親貞の裏手の山へと回ります。そしてこの日の未明、一斉に鬨の声を上げて貝を吹き鳴らし、大友勢の本陣に切り込んでいきました。直ちに山麓の納富信景も呼応して攻め上ると、油断していた大友勢は大混乱に陥り、我先に壊走を始めました。親貞主従三人は何とか混乱を脱し、山伝いに筑後方面を目指して退却しますが、成松らに追いつかれてついに首を挙げられました。大将を討たれた大友勢は一瞬にして烏合の衆と化し、二千余の兵を討たれて潰走、この戦いに大勝した龍造寺隆信は以後急速に勢力を拡大することになります。

広島の土砂崩れ


今朝の新聞で、被害のあった地域の地図をみると、毛利一族の熊谷氏がいた三入高松城(みいりたかまつじょう)広島県広島市安佐北区可部にある山城のあたりが崩れたらしい。
(詳細な地図では、高松山の少し南側の阿武山、権現山らしい。)

熊谷氏は源平合戦で有名な熊谷直実の子孫である。
「承久の乱」の戦功により安芸に入った当時の熊谷氏は当初三入荘北端に伊勢ヶ坪城を構え、居城とした。しかし戦乱の世になるにつれ、平坦な岡にある伊勢ヶ坪城の防備に不安を感じ、当主の熊谷直経は急峻な高松山に居城を構えた。これが三入高松城の始まりである。
戦国時代当初は熊谷氏は安芸武田氏に臣従していたが、熊谷信直の代になり領土問題などの争議が起こったため武田氏から離反した。
天文2年(1533年)信直は毛利元就と和議を結び、信直の娘が吉川元春の嫁となって以後、毛利氏の重臣となっていった。同年、熊谷氏の旧主・安芸武田氏の武田光和による攻撃を受けたが落城せず、その防御能力の高さを見せ付けた。 
毛利軍の進撃経路

1591年に広島城が完成すると、熊谷氏も城下に移住したが、慶長5年(1600年)「関ヶ原の戦い」の後に熊谷氏が毛利氏の防長移封に従い安芸国を離れるまで、三入高松城は熊谷氏の居城であった。城の北麓に熊谷高直が築いたとされる熊谷氏居館の「土居屋敷」跡がある。
1615年の一国一城令で破却され、多くの遺構が消滅した。
城山は、紡錘形をした、急峻で高さのある山である。高松山の標高は339メートル。 頂上からは、南方に安芸香川氏の八木城、玖村氏の恵下山城、はるかに安芸武田氏の佐東銀山城を望む事ができる。城跡には井戸跡や馬場跡、石垣がわずかに残っており、本丸の土塁跡などが確認できる。
前方には川が外堀として流れており、山自体もかなり急峻な典型的な山城である。城跡は昭和26年(1951年)4月6日、広島県の史跡に指定された。
現在の高松山では、毎年5月末の土日に山腹に大文字を点火、献灯する行事が行われている。これは、山頂にある愛宕神社の春祭りの一端として行われている。
この可部の地は京都のように山と川に囲まれた盆地のようであり、この可部の大文字焼きは京都の「大文字」(五山の送り火)を真似たものと言われている。