2025年9月28日日曜日

大学湯が文化遺産に(改訂版)

 福岡市東区に九州大学が存在していた頃、学生を対象にした「大学湯」が、近くにありました。



大学が西区に移転したあと、一般家庭は内湯の時代になり、大学湯は廃業になりました。

その施設を、文化遺産として、地区の社交場に改造されたことは、FBなどで認識していました。

NETに出ている大学湯の場所は間違っているので、正確な地図を添付していきます。







今日,千早の「なみきスクェア」に、「銀ソーダ作品展」をみにでかけたら、アーティスト 銀ソーダさんが、旧大学湯の建物保存活用プロゼクトの運営管理でも大きな活動をされていることを知りました。

彼女の「記憶と時間の可視化」をテーマに、青を基調とした記憶の海は、「Ginsoda Bulue」と呼ばれている。

絵具の層からは、日々の積み重ねが何かの形となり、人生の軌跡のようなものを感じられます。


大学湯の壁画にも、そのGinsoda Bulueの模様がとりあげられています。






構図を構想中の作家


銀ソーダさんは、箱崎の出身で、親子3代大学湯の愛用一家だったそうです。だから仲間が大勢いて、ハコザキ ブループリント プロゼクトが結成されています。



大学湯の活動には、このプロゼクトのメンバーも活躍しているようです。

私も小学生のころは、よく大学湯を利用していました。

大学生の会話を聞きながら、大学での勉強はどんなものかと興味を持つようになりました。

ある時、一人の学生が、「昨日出されてテーマのレポートを、30枚の回答にまとめてた」と友達にはなしているのを聞いて、驚いた記憶があります。

小学生の宿題なら、問題ごとに数行の回答が普通ですから、大学は大変なところだとかんじました。

大学湯のGinsoda Blueは、そんな記憶を思いださせます。

銀ソーダさんも祖母、母、本人と、3代も大学湯を利用を利用されていたようで、ソーダの名前も本名の化学分子記号が、炭酸ソーダににているからだそうです。

彼が、私が勤めていた九州産業大学の卒業生であることも、親近感を感じさせられます。

この「大学湯」という銭湯は明治43(1910)年春に箱崎浜、現在の筥崎宮・交通安全祈願殿がある場所に開業した潮湯「抱洋閣」の運営が「大学湯」だったことは、絵葉書の画面や諸資料から連想されます。

 個人的に、抱洋閣の「大学湯」が現在地へ移転したのが昭和7年頃なのだと思っています。 状況証拠として、昭和7年というのは国道2号線(現・3号線)開設に合わせて箱崎浜が埋め立てられ、国道に半分掛かっていた抱洋閣や箱崎水族館が閉鎖される時期。 抱洋閣の建物跡は、私の子供のころの遊び場所でありました。



箱崎八幡宮の参道で、200mの長い道路図「BLUE WAY」を描かれたことも、地元讃歌として有難いです。



ちなみに抱洋閣の設計は、東京駅や福岡市赤煉瓦文化館などを設計した辰野金吾博士です。

アーティストの目線でまちの文化遺産が進化する。お湯はないけど温かい「大學湯」プロジェクト | フクリパ







2025年9月27日土曜日

壇ふみの母、壇ヨソ子

 母、檀 ヨソ子さんの人生

「だんよそこ」。大正11年、福岡県瀬高町に生まれる。
旧姓山田。生家は造り酒屋だった。柳川高等女学校卒業後、職業軍人と見合い結婚するが、出征した夫は戦死。ヨソ子は実家に戻り、終戦を迎える。
先妻を結核で亡くし、柳川市で遺児と二人暮らしだった作家の檀一雄と、昭和21年に見合い結婚。まもなく。一家で上京する。
その後、二男二女を出産。次男が5歳のとき日本脳炎から重度の心身障害に罹り寝たきりとなり、10年間看病に明け暮れるが、次男は15歳で他界する。
家事、五人の育児を一人できりもりしながら、夫の執筆の口述筆記をするなど作家の妻としても献身的に立ち働く。






晩年、一雄が体調を崩してからは、夫婦だけで福岡県能古島(のこのしま)に移り住む。
昭和51年、肺ガンに倒れた夫を見送る。
東京・石神井の自宅で、ふみ、さとら娘二人と暮らした。2015年4月24日に92歳で逝去。

「私は九州工大に勤務していた頃、ヨソ子さんの妹さんで、瀬高町の豪農に嫁がれた方の娘さん(壇ふみさんの従妹)を、九州工大の卒業生で、TOTOのエンジニア―に紹介し、仲人を務めた縁がある。ふみさんによく似た美人であった。
壇一雄は、旧制福岡高校の先輩であり、彼が最初の結婚をしてまもない頃の『リツ子・その愛』『リツ子・その死』などは、ラジオ小説で聞いていたので、能古島に移り住んだ頃は、ニュースに興味をもっていた。
肺癌で九大病院に入院した時は、私の義父の入院部屋の隣が彼の病室であった。」

2025年9月20日土曜日

福岡高校と小田和正?

 今年も福岡県高校OB/OAのゴルフ大会が、和白ゴルフ場で開かれた。もとメンバーなのでコースの思い出を楽しみながら、TVをみていた。

福岡高校のティームが登場して、いきなり「DA!!OH!!」のタオルを広げたのに、驚いた。


私も同じタオルを持っているからだ。


20年前位の同窓会で配られたタオルなのだか、「DA!!OH!!」の意味は今まで知らないままであった。

テレビでの説明では、1991年に大ヒットした、小田和正の「ラブストーリーは突然に」という歌を、当時の幹事さんが、OH DAを逆にして、DA! OH!にしたらしいという説明であった。

その他、新緑、千代 玄冬 立花 福高讃歌 などをローマ字で記載している。

福高昭和44年卒のチームによりつくられたタオルである。

戦前の卒業生である私の世代では、小田も知らないし、ラブストーリも知らないが、小田が建築工学を専攻した青年であったという経歴を知って、驚いている。

今回のゴルフ大会優勝は、大濠高校で、福高チームはほとんど賞品に縁がなく、バレーボール部100周年で出場しった記念賞だけだったのは、残念であった。



2025年9月14日日曜日

冷泉と今泉

 最近たまたま、冷泉町出身の人と、今泉町出身の人に出会った。福岡市の博多区と中央区の差があるが、文字がよく似ているので、混同しやすい。

地名の歴史を調べてみると、古代の博多湾には大きな入江があって、冷泉津と呼ばれていたので、冷泉は古くから博多の広い範囲を含んでいたようだ。その後の町の発展で新しい町名が増え、冷泉小学校も統合されて博多小になり、冷泉小の跡地は地下鉄工事で発見された古代遺跡を展示するための「博多遺跡」を作る計画が進行している。

今泉町の地名は、福岡の中心の天神と、南側の薬院の間に小規模の池あり、今泉池とよばれていたことから、地名になったようだ。田園地帯であったが、黒田の福岡城周辺の寺院地帯となり、多くの寺院がならび、その後天神地区の発展の余波をうけて、街の様子も急変している。

ながく福岡を離れていた身として、二人から近況を聞き、昔を思い出している次第である。

2025年9月12日金曜日

補聴器の技術

 高齢になると、高周波の音が聞こえなくなる。

単に音が聞こえなくなるのであれば、音響拡大装置をつければよいが、これでは雑音まで拡大されて、使えない。

デンマークなどの北欧州の言葉は、子音が多いので、高周波の研究が進み、補聴器の開発も世界の最先端を走ってきた。

Oticon, Widexなどがその例である。この2社で世界の50%を超えているようだ。

日本では高価な補聴器になり、30万円位で2年間保障である。

問題は老人が使用するので、メンテナンスの継続が出来にくいことである。

耳垢により、補聴器の通路の詰りを、2週間に一度掃除すること。

湿気による音響機器の能力低下を防ぎ、乾燥させること。

騒音レベルに応じて、受信レベルの調整を行えること。

などの機能が追加され、最近は使いやすくなってきている。

日本国内のメーカーも早く性能向上を行って、もっと安価なレベルで製品化してもらいたい。


日本景気の再生

1)昭和40年下半期より45年7月まで:いざなぎ景気 

(テレビ、冷蔵庫、洗濯機からカラーテレビ、自動車、クーラーの時代)

2)平成3年(1991年)9月24日:いざなぎ景気を超える。

(天安門事件、ベルリンの壁崩壊、ソ連消滅の時代)

3) 平成18年(2006年)11月22日:いざな景気超えと発表。

(小泉・安部内閣で、58ケ月経済拡大)

その後の景気低迷を予測していた堺屋太一さんは、2000年頃、生産体制の強化や教育体制の見直しを強調していた。

日本の強みは経済大国ではなく、生産大国(ものづくり大国)だから、生産に興味をもつ若者の育成が必要であるが、ソフトや芸術の分野に若者の興味が移った。

しかもマスコミは、生産現場は、「きつい、きびしい、帰れない、結婚できない」など4Kを強調し、大学入学者の工学部離れが進行した。

1990年頃60万人以上だつたが、最近は27万人にどどまった。

製品のブラックボックス化で内部構造がわからなくなり、少年期からものづくり触れる機会がなくなり、起業に入ってから新技術に追いつくのが大変になっている。

NHKの「プロジェクトX」に登場する多くの技術者たちは、現役を退職したあとの「遅すぎる評価」の番組である。

ものづくり企業の労働組合幹部も、経営側と協力して、子供たちを対象にした「ものづくり教室」を全国展開しようと準備しているそうだ。


2025年9月9日火曜日

「萱町」となった名島城下町

 ワスレグサ(忘れ草、学名:Hemerocallis fulva)は、ワスレグサ属多年草の一種。別名で、カンゾウ(萱草 )ともよばれる 。

江戸時代に、黒田長政が筑前にはいり、名島城をすてて福岡城を建造した。

正保年間の地図によれば、名島の城下町は廃墟となったため、「萱町」と呼ばれていた。その東は「松崎村」、南は「箱崎村」、北は「秋山町」であった。



元禄14年の地図では、名島村になっている。

名島町の住人は、博多の中洲を超え、橋口町の西の上名島町、下名島町に移り住んで、名島町の名前は、福岡城の近くに存在していたが、現在はまた消滅している。