1月20日は相良義陽・菱刈隆秋が、島津氏に講和を求め、一旦休戦に持ち込んだ日。
肥後相良城の相良義陽(よしひ)と 北薩伊佐郡太良城(鹿児島県菱刈町)の菱刈隆秋は姻戚関係にあり、長らく友好を保ってきました。
島津氏とは微妙な関係にあり、表だった大きな合戦はしていませんが、当時はまだ国人衆の勢力が比較的強く、反島津的な立場にいたと言えます。
享禄三年(1530)、相良氏と菱刈氏は連合して島津氏の大口城(同大口市)を攻略、以後大口城は菱刈氏の持ち城となりました。
島津氏では貴久の代に三州統一に動き出しますが、渋谷一族(祁答院・入来院・東郷氏)や菱刈・蒲生・北原らの諸氏は反発を強めます。
島津貴久の家老伊集院大和守忠朗が大隅加治木城主肝付越前守兼演らと黒川崎で戦った際の古文書には、人々が新兵器「鉄砲」の登場に驚いていることが見え、おそらくこの戦いにおいて鉄砲が九州で初めて実戦で使用されたのではないかと考えられます。
島津氏の勢いは日増しに強まり、永禄七年に北原氏を降伏させると矛先は相良・菱刈氏に向けられ、大口城へは島津氏の猛将・新納忠元を差し向けました。
相良・菱刈両氏はこの1月20日に講和を求め一旦窮地を脱します。
しかしその後も反抗的な態度を見せたため、三月に島津家久によって城を落とされ、以後大口城は島津領となり新納忠元が入っています。
アンダーバーをつけた人名は私の周辺の知り合いにいる人達で、また伊佐市には医師の孫がいるので、身近な歴史を感じます。
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