西方浄土筑紫嶋
古代で西方の嶋を筑紫(竹斯)嶋となずけた。
2017年7月19日水曜日
京都御所
京都の祇園祭りに関連して、京都御所のテレビ番組をみた。
特に天皇の住所である内裏は最初の場所から、現在の御所まで、下の図の範囲で多くの場所を変遷した歴史に驚いた。
平安遷都
(
延暦
13年・
794年
)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の
千本通り
沿いにあった。
現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった
土御門東洞院殿
の地である。
南北朝時代
(
14世紀
半ば)から
北朝
側の内裏の所在地として定着し、
明徳
3年(
1392年
)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となって
明治
2年(
1869年
)、
明治天皇
の
東京行幸
時まで存続した
。
御所や内裏の近くに、武士政権の探題や屋敷や城が次々に建設され、朝廷も安住の地がなかった。
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