2025年7月2日水曜日

千住鎭雄教授夫婦の子育て


千住鎭雄教授は、慶応義塾大学で経済性工学を創設され、日本産業の生産性向上に貢献された。特にわたしが参画していた日本VE協会の活動では、その理論的指導者として何回の指導講義をされた。

当時から先生の子供さんが芸術界で有名人であることは知っていたが、最近のテレビで、3人の子供さんの教育に、先生と奥さんが、非常にユニークな方針で臨まれたことをしり、その概要をまとめてみた。

 



幼児期から子供のお絵描きや楽器操作などに、両親は積極的で、自由に遊ばせる方針であった。


真理子が2歳3ヶ月から、3人ともヴァイオリンの練習をはじめた。


一番上達したのは真理子さんだった。
3人とも慶応義塾の幼稚舎から、小・中・高と進学した。
母親の文子さんは、子供たちの行動を、すべて褒めて褒めまくる態度であった。
父親の鎭雄は、長男の博が落書きをしていて、父がきたのでやめた時に、「何故やめたのか。
最期までしっかりかきなさい。出来たら見てあげるから」といったそうだ。


絵がすきだった博は、慶応義塾大学に進まず、浪人して東京芸術大学へ入学し、画家の道を進んだ。
アメリカにわたり、修行して新手法で独特の瀧の絵を描き、国際的な画家となった。



真理子はヴァイオリンの才能に恵まれ、12歳でプロデビユーした。母文子は真理子の活動に掛かり切りであった。



国際帝なプロになった真理子は、世界最高のバイオリン「デユランティ」を手にいれた。

かってローマ法王が所持していたもので、その後富豪が所有していたが、遺言で優秀なバイオリン演奏者に贈ることになり、選考の結果、千住真理子が選ばれたという。
その保存のための住居は鉄骨作りの部屋で、温度、湿度、警備などの条件
が厳しいそうだ。

博と真理子の間の明は、二人ほど特殊才能がなく、留守がちな両親のため食事作りで家族をささえていた。

兄や妹のようになれない苦しみで、友人と音楽バンドをつくり、その活動にのめりこんでいた。

街のバンドでは、、楽譜に書かないで自由に弾いていい雰囲気があった。




その様子を見ていた兄の博が、「バンドは日陰の身の音楽だ。それを日向の世界に引っ張りだせ。そのために音楽大学に入れ。」と諭した。
心機一転して明は東京芸大音楽学部作曲科に入学した。

その後作曲家として活躍し、TV作品などの音楽を多数てがけたいる。







両親もなくなったが、三兄妹はみんな、自分が親のような気分になって、お互いをたすけあっている。



今年3兄弟妹は、25年ぶりに3人が同じステージに登場する舞台をひらいた。









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