2018年10月24日水曜日

岩村高俊

岩村高俊
長岡藩家老河井継之助との折衝を拒否した悪役として有名だが、佐賀の乱の火付け役や、福岡の県令までしていたようだ。愛媛県での行政は好評のようだが、福岡県ではなにをしたのか?
土佐幡多郡に生れる。藩校の文武館で蘭学や砲術を学ぶ。
慶応3年(1867年)9月に通俊の鉄砲購入に随行して長崎へ行く。ここで監察・佐佐木高行の添え書きを得て11月に上京し、陸援隊に入隊した。直前に同郷の坂本龍馬・中岡慎太郎が近江屋で暗殺されると、暗殺者と噂された紀伊藩三浦休太郎を陸奥陽之助らと共に襲撃した(天満屋事件)。
その後、鷲尾隆聚の高野山出兵に参加している。


戊辰戦争では、新政府軍の東山道先鋒総督府の監察および応接係として転戦。

北越戦争では山道軍を率いて越後国の長岡に迫り、小千谷の慈眼寺にて長岡藩家老河井継之助と会談する。
だが、「会津藩を説得する」という河井の嘆願を「時間稼ぎであろう」と全く聞く耳を持たず交渉は決裂、結果として長岡藩は新政府軍の敵に回って激戦が行なわれた。
明治2年(1869年)には戊辰戦争の功で永世禄高200石を得た。

維新後、有栖川宮家令、宇都宮県・神奈川県の権参事を務めた後、明治7年(1874年)1月に佐賀県権令となり、内務卿・大久保利通の内意を受けて江藤新平を盟主とする征韓党の挙兵(佐賀の乱)の鎮圧に努めた。
乱の後は内務省に移り、大久保の随員として井上毅らとともに清国を訪れている。
同年11月には江木康直の後任として愛媛県へ赴任。明治13年(1880年)まで権令を務め、地租改正や民会施策などを実施。
以後は内務省の大書記官、石川、愛知、福岡、広島の県令や知事を歴任、明治25年(1892年)に貴族院議員となり、明治29年(1896年)6月5日には男爵に叙された。 

晩年は京都市の一条堀川に住み、議会開催中のみ上京していた。長男の岩村透が男爵位を継いでいる。


人格的評価については、毀誉褒貶様々な意見がある。

戊辰戦争期の評価

北越戦争時に、山縣有朋が小千谷の新政府軍本営に着いた際、岩村は贅沢な朝食を地元の娘に給仕させており、激怒した山縣は土足のままその膳を蹴り上げたという。長州人の岩村への評価は「キョロマ」であり、木戸孝允も同様の評価をしている。 キョロマというのは倨倣で無思慮な行動家、という意味の長州言葉。

長岡藩家老河井継之助は、本気で中立論を展開し、山縣有朋か黒田清隆との会談を希望していたが、岩村はこれを一蹴している。
後年自伝では「途中で従うようになった信州各藩の家老は平凡な人材ばかりで、河井についても経歴・人物を知らなかったため、時間稼ぎをしているだけだと思った」と述懐している。 そもそも、長岡藩の他の家老達は新政府への恭順派が多く、出奔した者すらいた。また、長岡藩は意地になって潰さねばならぬほどの規模ではない小藩であった。この岩村の熟慮を欠いた判断が、長岡藩を奥羽列藩同盟側へ追い込むこととなった。その結果、北越戦争における新政府軍の想定外の大損害、一度陥落させた城を奪われるという失態という記録となる。

たられば、の話ではあるが、河井と山縣或いは黒田清隆との会談が実現していれば、北越戦争そのものを避けられた可能性がある。会津藩への講和交渉を引き受けるとまで提案した河井に対し、一切の交渉の機会を与えなかったというのは、一軍の将として狭量とする意見もある。しかしながら内部の意見統一もできていなかった長岡藩の、他藩との折衝実績の無い家老の河井に列藩同盟との調停が可能であったかは疑問の残るところである。

行政家としての評価

佐賀県権令としても、ドナルド・キーンの「無能で横柄な岩村の抜擢は、最悪の選択だったと言える」との厳しい評がある。キーンの『明治天皇』によれば、岩村は佐賀藩士島義勇の前で佐賀藩士を侮辱し、彼を反乱側へと追いやったとしている。もっとも木戸孝允は、この人選は大久保利通の佐賀を決起に追い込むための策略(すなわち岩村の性格ならば、必ずや佐賀士族を侮辱し憤らさせるような事態を起こすであろうことを見越したもの)であると看破し、後に大久保に対する人格批判への根拠として久米邦武に洩らしている。

後に赴任した愛媛県では、積極的に旧藩士を登用し「民権県令・平民長官」などと呼ばれた。末広鉄腸は当時の功績・人望を高く評価している。


2018年10月23日火曜日

仁徳天皇陵古墳(改訂)

その昔、外部より観光したことのある仁徳天皇陵古墳です。
このような巨大古墳が築かれたのは、周辺に巨大な農地が開拓されたことの証明で、周囲を取り囲む池は、古墳の山崩れを防ぐためだったと考えられています。

今回、宮内庁は地元堺市と共同で、第1堤の発掘調査を行うこととなりました。被葬者は仁徳天皇と治定されていますが、世界遺産登録には学術的裏付けが必要でしょう。

新しい発掘でなにか解ればいいですね。まだ調査結果の詳細は発表されていないけれど、平成30年の歴史ニュース第1位になっています。




仁徳天皇陵は、クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓、5世紀中ごろ築造とされ全長約486mの日本最大の前方後円墳です。


上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。


日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、南側の履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。その場所は、伊勢神宮と淡路海峡をむすぶ一直線上にあり、応神天皇陵もこの線上に並んでいます。


前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約34.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。その時の出土品には葺石と埴輪があり、埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、鹿、家などが出土しています。
昭和30年代と最近の調査で造出しから須恵器の甕が出土し、古墳が造られた年代を知る資料として話題になっています。

明治5年(1872年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。
出土品は再び埋め戻されたといわれていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようです。
日本最大の前方後円墳にふさわしく、墳丘は3段に築成され三重の濠がめぐり、10基以上の陪塚があります。


仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中天皇陵古墳よりも後で築造されたことがわかっています。






2018年10月22日月曜日

義弟の高層マンション「ネクサス」と田舎の別荘

義弟のマンションは百道浜、福岡タワーの近くにある
ネクサス(NEXUS)の21F。つながり、むすびつきの意味。
これを撮った多くの写真が、フェイスブックにのっているので、集めてみた。






























愛宕山から




















近くに新マンション?






義弟の新築の別荘を見物しに出掛けた。完成して1年近く経過しているので、庭の芝生もそろい、我が家から移植した苗木も育って、落ち着いた住宅になっていた。

彼は会社経営者で、本拠地は、浦安、百道浜、シンガポールの高層マンションを渡り歩いているが、やはり土地付き、庭付きの住居が最高らしい。













2018年10月20日土曜日

観応の擾乱(改訂)



観応の擾乱 
あまり知られていない乱であるが、昨日のテレビ番組で詳しく紹介された。九州にいた足利直冬の事件は知っていたが、その背景がよく理解できた。

当事者1:足利直義(尊氏の弟)
当事者2:高師直(尊氏の軍師)
当事者3:足利尊氏
当事者4:足利直冬(尊氏の子ながら直義の養子)
時代:南北朝時代
年代:1348年(貞和4年)~1352年(文和1年) 
       観応は1350,1351年      年号は南朝
要約:足利幕府創建の元勲、足利直義と高師直の対立。それを傍観しているようにしか見えない足利尊氏。結局漁夫の利で尊氏の勝ち。


内容: 時代背景
足利直義と高師直は、色々な面でまことに対照的な人物であった。例えば、直義は穏健派で前代の鎌倉的秩序を再建することにより治安を安定させようとしたのに対し、師直は旧来の権威というものをことごとく軽視する急進派(いわゆる婆娑羅)で、旧権威の破壊の先に新秩序を求めようとしていた。
 この基本的な違いに加え、両者の立脚する政治的地位が又、おのずと対立を引き起こさざるを得ない媒体となっていた。
 師直、将軍である足利尊氏の執事である。従って尊氏の命令は全て師直を経由することになっており、その意味で師直は強大な権限を掌握できる筈であった。ところが尊氏は政権を樹立すると早々に政治向きの一切を直義に譲ってしまい、師直の思惑は当てが外れてしまった。師直としては当然面白くない。その上師直は、その急進的政治観を支持する多くのシンパがいた。そこで師直は、どうにかして幕政の主導権を我が手にしようと機を窺っていた。
 一方、そんな師直の存在は、無論直義にとって目障りで仕方がない。そこで、悉く師直の動きを封じようとする。要するに直義と師直はお互いにこれ以上ない邪魔者同士であり、その確執が時の経過につれて深刻になり、幕政を二分する大事件へと発展していったのである。

 高師直のクーデター
両者の不和対立は、既に1342年(康永元年)頃には南朝方にも知れ渡っていたようである。だが、その対立が双方の実力行使として火を噴いたのは、1349年(貞和5年)を迎えてからのことである。
 まず先制攻撃に出たのは直義の方である。1349年(貞和5年)閏6月3日、直義は尊氏に要求して師直の執事職を罷免させる。対して師直8月9日に弟の高師泰を河内国から呼び寄せ、8月13日武力クーデターに打って出る。直義は尊氏の邸に逃げ込んで難を避けたが、師直の要求は厳しく、翌14日には師直は上杉重能・畠山直宗の身柄を要求する。尊氏もその要求をのみ15日重能・直宗を越前国に配流を決定した。師直はそれだけでは満足せず遂に直義の幕府内の地位は尊氏の嫡子足利義詮に譲らねばならなくなった。
 だが直義も負けてはいない。1350年(観応元年)10月16日、直義の子息の足利直冬が九州で挙兵。続いて10月26日直義は不和の尊氏と決別し、この日京都を逃れて大和国に赴き、南朝と和を結んで師直と対抗するという離れ業に踏み切った。直義にも味方が多かったので、こうして直義が決起すると、各地の直義党が馳せ参じ、忽ち大勢力に膨れ上がった。

 高師直の最後
以後、直義と師直(&足利尊氏)は、数度に渡って鉾を交えたが、最後の勝利を握ったのは直義の方であった。1351年(観応2年)2月17日、直義は摂津国打出浜で師直・尊氏連合軍を敗ったのである。2月20日和議が整った。和議の条件は、師直が出家するかわりに、その生命を助けるというものであった。そこで翌21日、師直・師泰は出家した。しかしここまで事態が進んだ以上その約束が守られる筈もなかった。昨日までの権勢もどこえやら、師直が頭を丸めてトボトドと京へ向かって歩いていたが、その途中の2月26日、先のクーデターで父を殺された上杉能憲の手の者に襲われ、あえない最期を遂げた。

 足利直義の毒殺
幕府内の対立抗争は、高師直の死により一応解決したかのように見えた。しかし実は、既にこの時尊氏と直義の仲も険悪化しており、1351年(観応2年)7月19日直義は義詮との不和を理由に政務を放棄。8月1日には直義は京都を出奔した事により、両者の対立は決定的な段階を迎える。
 直義は京都を出た後、味方の多い北陸に向かい、一時は尊氏方を遙かに上回る勢力を築いた。これに対し尊氏は使者を遣わして和議を申し入れ、又、先に直義が行ったのと同様に南朝と和を講じるという非常手段をとったりして、頽勢の挽回に努めた。直義はその間に北陸を発ち、関東を抑えるべく鎌倉に移っていた。
 尊氏はこれを追って東下し、東海道各地で直義軍を撃破しつつ、12月29日尊氏軍は直義軍を足柄山に撃破し、伊豆国国府に陣取った。翌1352年(観応3年)1月5日尊氏は直義と和睦し鎌倉に入った。それから間もない2月26日は鎌倉で急死する。「太平記」には「黄疸が死因だと公表されたが、実は鴆毒で殺されたという噂がもっぱらだ」と、その間の消息を伝えている。直義が毒殺されたのは、どうやら本当であったようである。

 足利直冬の奮戦
尊氏の子でありながら父に疎まれ、直義の養子となったという経歴を持つ足利直冬は、尊氏と直義が対立したいわゆる観応の擾乱が生ずると、迷うことなく養父の側についた。その為尊氏により長門探題の座を追われたが、九州に逃れて少弐頼尚を頼り、忽ち北九州一帯を抑えて九州探題を自称するほどの勢力を築き上げた。
 しかしその勢力は、養父直義の死を境にして急速に衰え、やがて尊氏党の一色範氏に九州を追われることとなる。そこで直冬は中国に逃れ、長門・石見と転じながら、直義の後継者として旧直義党の面々と連絡を取りつつ、再起の機会を窺い続けることとなる。
 そして結局、直冬が選び取った方策は、南朝と結ぶことであった。かって直義も尊氏もやはり南朝と結んだが、天下三分の情勢の下では、そうすることが相手を倒す最も手っ取り早い手段であった。
 直冬は1352年(文和元年)暮れ南朝に帰順を申し出て許され、南朝は翌1353年(文和2年)半ば、直冬を総追捕使に任命した。
 かくて直冬は1354年(文和3年)の秋、山名時氏と共に上洛の途につき、京都西方の丹波へと軍を進めた。これに応じて北陸の直冬党の桃井直常らが北方から京都に迫り、楠木正儀らの率いる南軍も南方の石清水八幡宮辺りに進出した。
 直冬以下の軍が京都に乱入して、幕府軍の間に戦いの火蓋が切られたのは、1355年(文和4年)1月16日の事である。それから二ヶ月近く、京都をあらかた焼け野原と化して両軍は死闘を繰り返しが、直冬は遂に父には勝てなかった。
 3月12日、直冬は京都を捨て、西に負走する。その後直冬は、石見・安芸などにおいて山名時氏と結び、しきりに昔日の勢いを回復しようと努めたが、全て無駄であった。晩年は完全に没落したらしく、これだけ有名な人でありながら没年さえ明かでない。


2018年10月18日木曜日

末盧国は宗像説の根拠は?

最近下の図のような、末盧国は宗像という説が登場した。
従来の松浦や唐津という説と比較してみよう。


1)地名の発音:
 末盧、伊都は地名として松浦や怡土と言う類似の場所があるため、今まであまり異論がなく比定されてきた。
宗像の地名では類似性がなく、この地区にも類似の地名が見当たらない。
2)一支国(壱岐)との関係:
 宗像説は壱岐からの距離が千里だから、何とか可能性があるということが主な理由である。この理由でいくと博多や新宮湊や福間も可能性がある。
3)伊都国との関係:
 伊都国にも湊があるのに、何故末盧国に上陸する必要があったのか?という疑問がのこる。宗像説ならば伊都国には湊がないから、当然末盧国に上陸しなくてはならない。
4)不彌国との関係:
 不彌国への方向は東南だから、宗像説のほうが実地に合致している。ただ途中に遠賀川や仲哀峠という高い山越えが必要で、弥生時代の道路では考えにくい。神功皇后時代の経路はつぎの図のようだったという。また景行天皇の九州遠征でも、このルートは避けている。

いずれの説も、問題点があり、優劣つけがたい。

2018年10月16日火曜日

邪馬台国の旁国 

魏志倭人伝は、帯方郡から邪馬台国へ至る諸国と道程を示したあと、女王国の周辺の旁国を21国記載している。

邪馬台国も、九州説と近畿説があり、新井白石、吉田東伍らは九州説、山田孝雄らは近畿説での比定はまちまちで、あまり解明されていない。




近年の比定で、山田宗睦(青)と宮崎康平(黒)の例を次に示す。

斯馬国(しまこく):志摩已百支国(いわきこく):
伊邪国(いやこく):
都支国(ときこく):
弥奴国(みなこく):
好古都国(をかだこく):
不呼国(ふここく):
姐奴国(さなこく):御船町
対蘇国(とすこく):益城郡
蘇奴国(さがなこく):阿蘇郡
呼邑国(おぎこく):熊本市
華奴蘇奴国(かなさきなこく):山鹿、菊池、合志
鬼国(きこく)  :山本郡、植木
為吾国(いごこく):玉名郡北半分
鬼奴国(きなこく):玉名郡
邪馬国(やまこく):山門郡、三池
躬臣国(くじこく):浮羽郡、久留米
巴利国(はりこく):夜須郡、朝倉
支惟国(きくこく):基偉、鳥栖
烏奴国(あなこく):筑紫郡一帯
奴国(なこく):那珂川流域
ここは、女王の境界のつきるところである。

宮崎康平の説
その他ネット上の旁国図を紹介しておきます。


倭人伝が述べる「倭国の外にある国々」:
 女王国の東、渡海千里、また国あり。皆倭種なりと書かれており、周防、土佐の国であろう。倭人の国々(旁国)はみな九州の中にあり、本州、四国は倭種であるが、外国であったと考えられる。