2021年1月28日木曜日

縄文時代


 古代史の学者は、縄文時代には戦争は無かった、縄文人は争いごとをしなかったという。

縄文文化は1万年以上続いたのに戦争をせずに済んだのはなぜなのか?
それを、現代の文化人類学者が体験していた。
カリマンタン(ボルネオ)島の山岳地帯に住む千人くらいの民族の調査(フィールドワーク)にでかけた若手民族学者の体験話である。
彼らは山地に狩猟に出かけると、獲物の肉をグループの頭数で均等に分けあたえる。
外部企業による森林伐採の補償金も均等にわける。
日本から来た調査員が持ち込んだ食糧なども、勝手に持ち出して分配する。持っている通貨も、たびたび借りにくるし、返す気配もない。
純粋な共産主義の考えだ。格差のない生活習慣だから争いごとはない。まさに縄文時代の文化が、現代にもわずかに残っているという。

吉田松陰

 吉田松陰が幽囚録にかいた主張を、磯田道史さんが読売新聞に紹介しています。

その日本の目指すべき国土の広さは、私の中学時代の教科書の地図と同じでした。

2021年1月25日月曜日

志賀島で発見された国宝「金印」が偽物?

 志賀島で発見された国宝「金印」が偽物だという説が、NHKのニュースで放映された。


偽物説は、三浦佑之(2006)の著書で話題をよび、さらに今回の金工家鈴木勉の説が2013頃から提唱されはじめた。偽

しかし1989年に福岡市教委で、成分分析して、中国産の砂金を原料する鋳造品と判定しており、著名な考古学者はすべて否定している。
発見者の甚兵衛の名前が地元の寺の過去帳に見当たらないという説もあったが、大谷光男の調査で、地元庄屋の古文書で見つかったという。
漢の文字がつく金印は、66ケ造られていたようで、廣陵王璽の刻印とだけ比較した鈴木の偽造説などは、地方新聞の片隅にのるくらいのもので、福岡市のシンポジュームやNHKが取り上げるほどのものではないと思う。

2021年1月21日木曜日

バイオマスの分野

 昨日のTVで、昨年末ノーベル賞受賞の吉野さんが、今後の研究テーマとして、バイオマスの分野が有望という考えをしめされていた。

バイオマスとは、生物資源(bio)の量(mass)を表す概念で、一般的には「再生可能な、生物由来の有機性資源で化石資源を除いたもの」をバイオマスと呼ぶ。
バイオマスの種類には1.廃棄物系バイオマス、2.未利用バイオマス、3.資源作物(エネルギーや製品の製造を目的に栽培される植物)がある。
1)の廃棄物系バイオマスは、廃棄される紙、家畜排せつ物、食品廃棄物、建設発生木材、製材工場残材、下水汚泥等があげられ、すでに一部で実用化がすすんでいる。
2)の未利用バイオマスとしては、稲わら・麦わら・もみ殻等の利用で、今後の実用化の展開がきたいされる。
3)の資源作物としては、さとうきびやトウモロコシなどがあげられる。
わたしも30年前、マイアミ大学で、海中の藻が成長過程で酸素を放出するのを見せてもらったことがあり、これの大量栽培を期待していたが、その後の発展はまだきこえてこない。
植物の成長過程で光合成により大気中からCO2を吸収しO2を排出するので、地球温暖化防止に大きく貢献することができる。その効果の大きな新植物の発見が望まれる。
吉野さんは京大の学生のころ、考古学部で試掘抗の決め方を学び、宝さがし(研究)の基本にしているそうだ。
宿理 英彦、浦辺 登、他7人

2021年1月18日月曜日

益富城

 昨日は息子の案内で、嘉麻市の益富城祉に出かけた。


黒田藩六端城の一つで後藤又兵衛が初代城主であったが、又兵衛が出奔した後は母里太兵衛が城主となった。

天守閣などは残っていないが、天守跡、一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸跡やクルワ、石垣、掘割跡などが入り組んだ広い山城だったことがわかる。

石垣1

掘割

石垣2

石垣3


麓の広場は自然公園になっていて、プールやテニスコートなどが整備されていたが、荒れ果てていた。

10月下旬には一夜城まつりが開かれ、城跡に一夜城が蘇るそうだ。

周辺には又兵衛の後の城主となった母里太兵衛の墓のある麟翁や、黒田藩時代の遺品を展示した郷土館や、又兵衛の名をつけた饅頭屋などがあった。

帰路に鷹取山や福智山をながめ、これで六端城をすべて周ったことになった。
太兵衛は福智山を日本一の山と賞賛していた。
石垣4

2021年1月16日土曜日

安野光雅

 私の好きな画家、安野光雅氏が、12月24日になくなった。私と同年の大正15年生まれである。この年代の画家は少ないので、経歴をしらべてみた。

やはり戦中戦後の混乱期なので、青年期はかなり屈折した経歴であった。



1926年(大正15年)3月20日、島根県津和野町の旅館を営む家に生まれる。

1940年(昭和15年)山口県立宇部工業学校(現・山口県立宇部工業高等学校)採鉱科に入学。1944年1月、宇部工業学校を繰り上げ卒業、住友鉱山に就職し忠隈鉱業所(飯塚市)へ

1945年4月応召、香川県王越村(現坂出市)にて上陸用舟艇の秘匿場建設に従事。

復員後、1946年、敗戦直後の混乱期に無資格のまま山口県徳山市(現・周南市)で小学校の教員を務める

のち山口師範学校(現・山口大学教育学部)研究科を修了し、1949年昭和24年)に美術教員として上京。

約10年間三鷹市の三鷹市立第五小学校や明星学園武蔵野市立第四小学校で教師を務めるかたわら、玉川学園出版部で本の装幀、イラストなどを手がけた。明星学園・国語部、教育科学研究会・国語部会などによる日本語指導(言語の教育)のテキスト『にっぽんご』シリーズの装幀も手がけたのもこの頃である。

この小学校教諭時代の教え子に後の筑摩書房取締役の編集者松田哲夫がおり、そのつながりで同社の多数の本の装丁をしている。

35歳のとき教師を辞して絵描きとして自立。1968年(昭和43年)、42歳の時に刊行された最初の絵本『ふしぎなえ』(福音館書店)で絵本作家としてのデビューを果たす。

2021年1月14日木曜日

古賀市の地名(小宇名)で十二支の動物名が含まれている所。

 古賀市の地名(小宇名)で十二支の動物名が含まれているのは、牛、馬、猿、猪である。

牛は、牛越、牛ケ谷;(薬王寺:谷山)
馬は、馬渡、犬ノ馬場;(青柳)
猿は、猿ケ尾;(小竹)
猪は、猪ノ尾:(小竹)
馬渡(青柳)

犬馬場(小竹)

猿ケ尾・猪ノ尾(小竹)