2012年3月19日月曜日

椎ヶ元観音堂と鹿部田淵遺跡

福津市津屋崎の大石地区にある椎ヶ元観音堂(円福寺)は、60段ほどの石段を登った小高い丘のうえにあり、4間と3間の長方形の立派なお堂である。

現地には2012.3.16.に、はじめて訪れた。
平安中期の十一面観音像をもつ観光山恵華寺という大寺があったが、1560年の兵火で消滅した。観音像だけが奇跡的に発見され、保存されていたが、地元の人たちの浄財で1994年に観音像の補修とお堂が再建された。
恵華寺の古文書には、この地区周辺の大石、須多田、津丸などの地名は、磐井一族の子孫の名前によるということか記載されているそうだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/gfujino1/52863494.html
イメージ 1 
磐井の乱で有名な磐井一族は、筑後平野を根拠地とする九州一の豪族であった。継体天皇の末期に、磐井の君は新羅進攻に反対して兵を挙げて戦い、物部荒甲の率いる軍に敗れて戦死または逃亡したとされる。
その子の葛子が、糟屋の地を屯倉として献上して罰されるのを免れたということが日本書記に記されている。
その「糟屋の屯倉」の跡ではないかと思われる遺跡が、古賀市の鹿部田淵遺跡であり、今は遺跡公園として整備公開される。

鹿部田淵遺跡の模型


遺跡公園

最近発掘された船原古墳の装飾馬具もこの時期のものである。
装飾馬具

筑後を本拠地とする磐井が北部九州のどの範囲を領有していたかは不明だが、少なくとも新羅と交易していたから宗像氏とは友好関係であり、糟屋郡の地域までは一族が進出してきていたと思われる。


糟屋の地を献上したあとも、この地域に子孫が居住していた根拠が残っていないかという期待は、以前から持たれていた。
一部には、宮地嶽の巨大石室古墳や宗像の桜京装飾古墳が葛子のものではないかという説もあるくらいである。
最近、福津郷土史研究会で、葛子の孫たち三兄弟が福津の大石、多須田、津丸の地に居住していたという古文書を見つけられて、詳しく調査をはじめられている。
http://www.geocities.jp/kyodosi/#沖ノ島
  (22年4月26日のページ)
大石村、多須田村, 津丸村は上の江戸時代の地図に記載されており、古賀村の付近に鹿部田淵遺跡は発見された。これらは10Km以内の距離である。
{以下は福津郷土史会ホームページの要約}
津屋崎(現・福津)郷土史会調査『津屋崎の神社/天降天神社』や津屋崎町史民俗調査報告 大石区『ムラの始まり』によれば

筑紫の国造磐井の大石麻呂、須多田麻呂、津丸磐麻呂は三兄弟で、津屋崎の「大石」地区には椎ケ元観音様が祀られており、その由来記によるとこの地に龍光山恵華寺という大きな寺があり、筑紫の国造磐井の孫、「大石麻呂」が建立したものであると伝えられている。
近隣の地区の須多田はその弟「須多田麻呂」の名前、津丸地区は下の弟「津丸磐麻呂」の名前が残されている。
研究会では関連の古文書を解読中だそうで、さらに詳しい内容がやがて判明するだろうが、現在のところ、下記のようにまとめられている。

①今はないが昔,大石水上池のほとりに龍光山恵花寺という大きな寺があった.寺には七堂伽藍が備わり,多くの参詣者があった.
②本尊は聖徳太子の霊木で彫られ,霊験あらたかであった.
③寺は磐井の乱で討たれた筑紫君磐井の菩提のため建立され,建立者は磐井の七代の孫,大石麻呂,須多麻呂,磐津麻呂である.乳母小児を「召連れ」宗像の地に落来る.
④建立の時期は崇峻天皇5年である.(崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺され,推古女帝が皇位を継ぐ.翌年,聖徳太子が摂政となる.崇峻天皇5年は西暦592年.磐井の乱が527年なので,七代孫でどうだろうか)(椎ケ元観音文書5で明治31年に開扉1306年祭となっているが,1898-1306=592で計算は合う)
⑤宗像氏俊(1300年代)のため彼らは農民とされた.
若干の考察
未だ九州全域にまで勢力を及ぼしていなかった倭政権に対し,果敢に抵抗したのが6世紀の磐井であったが,この乱を契機に倭政権の全国統一が進んだものと思われる.一方,沖ノ島祭祀を始めとする倭政権の半島政策の重要な協力者であった胸形氏(のちの宗像氏)は7世紀,大化の改新に伴って宗像大社の神領であると共に神郡の大領をも兼ねて,その行政をつかさどることとなった.更に胸形君徳善の女尼子娘は天武天皇の妃となるなど皇室との関係を強めながら大いに繁栄した.その宗像氏の奥津城である津屋崎で,かっての大豪族である磐井の末裔はいくつかの村に分散してひっそりと暮らしていたものと思われます.もしかすると大石麻呂,須多麻呂,磐津麻呂の名前からして各々大石,須多田,津丸村の祖であり,その氏神様が風降天神社,天降天神社,神興神社だったのかもしれません.


更に椎ケ元観音文書を読み進めて考察を続けます.水上池のほとりにも何か名残がないか見てきます.

私の考えも同じで、このホームページの8月21日の項にある講演会で質問をしたのは私である。
糟屋の屯倉は、糟屋町にあるという説もあるが、この津屋崎の古文書から推測すると、古賀の鹿部田淵遺跡や船原古墳のほうが、この三兄弟の場所とより近い場所であり、真実味が深まるように思われる。

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