2012年3月30日金曜日

足利氏の天下取り

平氏は末期に平家の根拠地を九州に築こうとして失敗している。
源頼朝の挙兵により、源氏の時代となり、鎌倉が政治の中核となったが、足利家の2代目義兼は、頼朝の挙兵にいち早く参加して信頼され、妻政子の妹時子と結婚して、頼朝と義兄弟となっている。
源氏の将軍が絶えて、北条執権の時代になり、足利氏はひそかに政権をねらっていたが、8代目の足利尊氏がやっと鎌倉幕府を倒した。

足利と兄弟であった新田氏は、頼朝と距離をおいていたので、鎌倉幕府の末期に新田義貞が鎌倉を攻撃して、幕府を倒した。

その後尊氏は、新田義貞との争いに敗れて九州まで敗走してきった。しかし多々良浜の古戦場で勝利して勢力を挽回している。


陣の越の風景図

当時の古戦場の風景図(奥村玉蘭の図)と軍の配置図がある。
玄海義塾での発表状況



北部九州の豪族は源氏に味方したというべきか、平家や後醍醐天皇の貨幣制度重視に反対だったというべきか?
この場所では、後に立花城の攻防をめぐって、大友軍と毛利軍の戦いも展開されている。
わたしの青春時代はこの河口にあった大学のヨット基地で楽しんだが、当時はこの歴史には殆ど関心がなかった。
http://gfujino1.exblog.jp/8046061/

その後、歴史に興味をもち、何故尊氏が九州で勢力を盛り返したのかが、解ってきた。
鎌倉幕府は、東国の坂東武者を基盤にした武力により支えられていた。その後半期は北条一族の独善に近い悪政がめだっていた。
源氏の流れである新田、足利も北条の独裁に反感をもっていたが、関西や九州の西日本の武将、豪族も同じ思いであった。
後醍醐天皇が笠置山で幕府討伐の挙兵を行い、楠木正成らが赤城山で挙兵し籠城した。後醍醐天皇は吉野にのがれ、楠木らは千早城で抵抗をつづけた。
この時期をみて、まず足利尊氏が六波羅探題で反旗を翻し、ほぼ同時に新田義貞が鎌倉に侵攻して、鎌倉幕府は2週間くらいで滅亡した。
後醍醐天皇の建武の新政は、貴族に厚く武家に薄いものだったので、武家の不満が高まった。
尊氏は室町幕府の新設を望んだが許されず、天皇に反旗を翻した。この時新田と楠木らだけが朝廷側につき、尊氏軍を撃退したが、一部の朝廷側の兵は、逃げる尊氏軍について西走したという。
西国の武士も一部を除けば建武の新政に反対なので、多々良浜の戦で尊氏に合流し、4万近い軍勢に膨れ上がって京都をめざして東上した。
このとき正成は尊氏の能力を評価し、後醍醐天皇に、新田を捨てて、足利と和睦することを提案した。
これが退けられると、天皇が比叡山に逃げて、足利軍を京都に入れた後に、新田と楠木で包囲し、焼き討ちにすることを提案した。
しかしこれも天皇側で否決され、湊川の敗戦、新田軍の敗北となり、北朝の時代となった。


鎌倉武将の複雑な対立




足利尊氏が室町幕府の征夷大将軍となり、天下を取り、足利幕府は15代つづき、義満に時代に全盛期をむかえた。
その戦略的な思想の文化が足利学校にのこされていた。
周易伝を頂点とする17000冊の図書と、3000人を超える学生教育の実績があり、9代目の校長「三要」は、徳川家康の軍師として関ケ原の戦に参加し、見事に勝利して、家康の天下取りを成功させた。
このことは当時の欧州の地図にも、坂東のアカデミーとして記入されていた。




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