2013年4月11日木曜日

家康、島津氏赦免を誓約 慶長七年(1602)4月11日

慶長七年(1602)4月11日は、徳川家康が島津義久の本領を安堵、忠恒(家久)の相続を認め義弘の赦免を誓約する。

 慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原において西軍に加担していた島津義弘は壮絶な敵中突破を行って戦場からの離脱に成功、苦労を重ねて本国にたどり着きます。
 しかし島津氏の戦後処理はこれからはじまります。
 十月三日、当時兄・義久が在城していた富隈城(鹿児島県霧島市)にたどり着いた義弘は、直ちに善後策を協議しました。

 しかし当時の島津氏には複雑な事情があり、関ヶ原合戦の西軍加担にしても、家中一丸となってのものではありませんでした。
 その一番の原因は、義久に男子がなかったことから生じた後継者問題でした。一時は義久の三女・亀寿を娶った久保(義弘二男)が跡嗣ぎとなりますが、久保は文禄役中に病没したため、義弘三男の忠恒(のち家久)が亀寿と再婚の上で当主となりました。
 しかしこれらは豊臣政権の強い意向が働いたことによるもので、豊臣政権は義久より義弘を重視したため、家中の分裂を引き起こす結果となっていました。
 加えて関ヶ原合戦後には、同じく西軍の主将格として参陣していた宇喜多秀家が、島津領内に落ち延びてきたこともあり、対応を一歩間違えると滅亡の危機をはらんでいました。
 慶長六年、戦後処理を進める家康は、義弘父子に薩摩討伐をちらつかせながら、上洛して謝罪することを求めました。

義弘は義久と相談の上で軍備は整えながらも、家臣を派遣して家康に申し開きをしています。
島津義久の肖像
その結果、家康は慶長七年四月十一日になってやっと島津氏の本領安堵に加え、忠恒の相続を認め、義弘の赦免を誓約しました。
敗戦組では唯一の本領安堵

 同七年十二月二十八日には忠恒が伏見城に伺候、家康に拝謁して正式に島津氏当主として認められました。
義久の一族への感謝
家康の義久評価

 ちなみに忠恒は、同十一年六月に家康から偏諱を受けて家久と改名しています。
これで島津家は幕末、明治まで続き、維新の主役を演じましたが、これは義弘の子孫であった。

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