2013年4月11日木曜日

歴代の黒田(福岡)藩主


関ヶ原戦に向けては、黒田孝高・長政父子揃って家康と連携して動いています。
(この事は江戸時代や明治に書れた軍記物によるのではなく、家康、井伊直政、吉川広家、福島正則、長政、孝高が伝える当時の書簡で確認できる事です。)



長政が関ヶ原本戦にある時、ご存知のように孝高は九州の西軍諸城を攻めました。
諸城は、主力を上洛させていますから留守番部隊を攻める体であり、西下して来た大友義統との豊後石垣原での戦いの他は、事実上、囲めば開城するという程度の戦いでした。
しかし、上洛中の所領を蹂躙すると云う行動は大きく政治的効果を持つものでした。


この九州における西軍諸城攻略は、上洛中の長政を通じて、井伊直政を取次に、家康からの許可を得て初められます。そして、大友義統を迎え打った後、義統の投降は、奇しくも関ヶ原本戦同日でしたが、今度は家康の直書により、小倉城の森吉成討伐の命を受けます。

その後、筑前、筑後、肥前と進み、小早川秀包、立花宗茂を投降させると、彼らを先鋒に薩摩境を目指しますが、11月11日付けだったか、(11月は間違いありませんが、)またも、家康直書で停戦命令を受けます。
つまり、長政・孝高は関ヶ原前後、忠実に家康の下で動いたことが確認できます。故に、豊前半国18万石から、長政は東軍ではトップのほぼ、三倍の加増で筑前に転封となり、福岡藩初代藩主1600年-1623となます。孝高は隠居。



長政後妻・大梁院殿は、家康実の姪です。つまり二代忠之は、家康実の姪の子です。この事をとっても、黒田は譜代に近い関係にありました。

二代藩主忠之は、父・長政の遺言により弟の長興に筑前秋月藩5万石、高政に筑前直方藩4万石を分知した。これにより石高は43万3千余石となった。

 二代忠之1623年-1654年の時代、豊前の細川は、すでに肥後転封後で、細川との対立は長政死去前に、幕閣が中に入り、解決しています。

沖ノ島に藩兵を在番させていた事もあり、豊前小笠原には、海上での密貿易取締りで頼られていました。形の上では、当然、小笠原が上位。萩藩水軍も伴い、玄界灘での三藩共同の取締りに主役を勤めています。

忠之の時代には黒田騒動と呼ばれるお家騒動が起きました。


3代藩主光之1654年-1688年は、藩儒貝原益軒に命じて黒田家正史の『黒田家譜』を編纂させた。

それまでの保守的な重臣を遠ざけて新参の鎌田昌勝立花実山を家老として新たに登用し、藩士の序列統制や幕末まで続く福岡藩の政治体制を整えたといえる。

4代藩主綱政1688年-1711年は、東蓮寺藩主から福岡藩主となった。第二の黒田騒動と呼ばれる御家騒動が起きる。

5代藩主宣政1711年-1719年は、生来病がちであり領地筑前に中々入ることができず、叔父の直方藩主・黒田長清が代理として藩政を助けた。

6代藩主継高1719年-1769年は、直方藩より本藩の養嗣子となったため直方藩は廃藩となった。このため所領4万石は福岡藩に還付され、石高は47万3千余石となり廃藩置県までこれが表高となった。藩祖孝高の血統としては最後の藩主


 


7代藩主治之1769年-1781年は御三卿一橋徳川家からの婿養子で、8代将軍徳川吉宗の孫にあたる。養父の継高は黒田一門、重臣達と協議の上、福岡藩の永続を優先に考え、徳川家から養子を迎えた。

8代藩主治高 1782年-1782年は、婿養子(末期養子)として多度津藩京極氏から迎えたが早世し、妻子も無く1代限りの藩主であった。

9代藩主斉隆1782年-1795年は、御三卿・一橋徳川家からの婿養子。11代将軍徳川家斉は同母で実兄である。天明4年(1784年)に修猷館(しゅうゆうかん)、甘棠館(かんとうかん)の藩校2校を興した。

そのうち修猷館は福岡県立修猷館高等学校として現在も福岡県教育の主導的地位を誇っている。

10代藩主斉清1795年-1834年は、江戸時代後期、蘭癖大名として世に知られ、肥前長崎の黒田家屋敷に何度も往来して見聞を広げている。

11代藩主長溥1834年-1869年は 薩摩藩島津氏からの養継嗣。正室は斉清息女、純姫。父や養父と同じく蘭癖大名であった。

12代藩主・初代知事1869年-1869年長知は、伊勢津藩藤堂氏からの養継嗣。能楽を好み、多くの能楽師達を支援した。最後の筑前福岡藩藩主。初代福岡知藩事となった。贋札事件により廃藩置県に先立って解任。

2代知事有栖川宮熾仁親王は、解任された長知に代わって最後の知藩事に就任。まもなく廃藩置県を迎える


(幕末・維新時代の人材)

昨日はアクロスで開かれた霊山顕彰会の講演会に参加しました。
霊山とは京都霊山護国神社境内(霊山歴史館向かいの山)で、ここに明治維新の志士約3100柱が合祀されています。
 明治天皇のご意志で、明治元年5月1日付の太政官布告で(嘉永6年=1853以来の)「国事ニ斃レ候諸士及ビ草莽(そうもう)有志」を「東山の佳域」すなわち霊山を聖域として、殉国の志士が祀られることになりました。
木戸孝允・松子夫妻を始め、坂本龍馬、中岡慎太郎ら、祀られている3100余柱のうち墓碑(合葬墓を含む)の確認されているのは386柱です。
主な志士は、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、武市半平太、木戸孝允、梁川星巌、徳川斉昭、梅田雲浜、真木和泉守、平野国臣、橋本左内、頼三樹三郎、中山忠光、伴林光平らです。
 昨日は顕彰会福岡県支部の講演会で、「幕末・明治ー激動の福岡地方史」シリーズのなかで、幕末の黒田藩主、藩校、人材の話でした。
 昨年からのシリーズで、平野國臣、加藤司書などは既に紹介さらたのか?触れられずに、金子堅太郎、団琢磨など黒田藩派遣海外留学生の話でした。松下嘉一朗など日本人ではじめてスイスに留学し、後に福岡市長になった人物もいました。
 留学後、東大教授の要職につきながら、黒田藩に対する偏見で迫害され、自殺した人や地方の大学に移った人の話などは、初めて耳にしました。
黒田長溥

 11代藩主黒田長溥(斉溥)は、9代島津藩主、島津斉宣の末弟で、黒田家の養子にはいった人物です。
ぺりー来航のときには積極的な開港論(貿易立国論)を建白したくらいに先見性をもっていたし、長崎に留学生を派遣し、洋式技術の導入に努め、東中洲には精錬所・反射炉をつくり、外国から蒸気船を購入し、様式軍隊の訓練を取り入れたりしました。
 一時は薩長同盟の動きを模索していたが、倒幕論までの決意がなく、西郷らの薩長同盟締結の3ケ月前に、乙丑の獄で加藤司書、月形洗蔵らの尊攘派を処分したため、明治政府から軽視される結果となってしまったようです。

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