2013年6月20日木曜日

志賀島の金印の謎(更新)


かって岡本顕実さんの、「志賀島の異聞」という講演をきいた。金印発掘で有名な志賀島であるが、高麗人が住んでいたという部落(高麗林、唐人塚、金港)や、その関係資料や発掘物(陶器類)などの話であった。
志賀島歴史研究会のメンバーで元毎日新聞の記者からフリージャーナリストとなり、九産大講師なども勤めたことがある人物だ。志賀島で発掘された金印の謎も少し触れられた。

その後、金印シンポジューウムが、志賀島や九産大であり、
テレビでも放映されたので、「金印の謎」について纏めてみた。

1)文字「漢委奴国王」の読み方。
金印を与えたのは後漢の光武帝

後漢書の「東夷伝」

これを魏志倭人伝や後漢書との関連つけたのは、
甘棠館の亀井南冥である。彼は、委奴を倭奴(ワド)と解釈し、倭国と詠んだ。
亀井南冥

委奴を伊都(イト)と読んだのは藤貞幹や上田秋成である。






明治になり、三宅米吉が、倭(ワ)の奴(ナ)と分けて読んだ。西南学院大の高倉教授は、これが正しいとされている。


仏教大の黄色教授は、奴国(ヌコク)を大きい国(連合国)と読む。奴や乃は(nui)で、大きいという意味があるという。
最近では人偏を省略するのはおかしいから、伊都国がただしいという説が強くなっている。
伊都国には、大陸との交流を示す出土品が多数あることが裏付けとなっている。



2)金印の材質と寸法

金印の材質は純度95%以上の純金であり、江戸時代の大判、小判などは、85%以下だから、これを鋳造しても作れない。


1989年に福岡市教委で、成分分析して、中国産の砂金を原料とする鋳造品と判定している。
寸法も1寸が30ミリと24ミリの時代があり、後漢時代は24ミリの時代の作であるから、正式のものである。

3)金印のつまみ

洛陽より北の国にはにはラクダ、南に国には蛇の形をつけていた。
志賀島の金印はラクダを蛇に変更した様子が残っている。北か南か迷っていたらしい。

4)偽造説
文章や文字の形や削り方から、江戸時代の偽造とする意見がいくつかある。
江戸初期の学者が文言に異義をだした。しかし金印と同じ事例がみつかり、否定された。

最近では、三浦佑之(2006)の著書で話題をよび、さらに今回の金工家鈴木勉の説が2013頃から提唱されはじめた。
鈴木勉氏

文字の形、彫り方、線の表現方法、線の太さなどについての異義がだされたが、偽作という決定的な証拠はでていない。

漢の文字がつく金印は、66ケ造られていたようで、廣陵王璽の刻印とだけ比較した鈴木の偽造説などは、地方新聞の片隅にのるくらいのものであろう。

しかも、偽造の目的や人物の姿は全く不明で、材質の純度から、江戸時代の偽造は不可能に近い。


5)関係者の不審死

亀井南冥は最初の文字の判定者であったが、
彼の甘棠館が火事で焼失し、彼の自宅も出火して死亡した。志賀島でも発見者の甚兵衛宅付近からも大火がおこったという。また甚兵衛の名前が地元の寺の過去帳に見当たらないという説もあったが、大谷光男の調査で、地元庄屋の古文書で見つかったという。


6)志賀島でみつかったわけ

発見当時修猷館の竹田館長が、金印は天皇家所有のもので、安徳天皇が壇ノ浦で入水されたとき所持されていたものが、潮流で流されてきたと推測した記録がある。



伊都国のものを、奴国が占領して持ち帰った説。
元寇の戦で大宰府まで侵攻した元軍が持ち帰ろうとして、嵐に逢い沈没したという説。
漢国から帰国した船が難破して沈没したという説。などなど諸説がある。

金印発見から今年で240年となるが、その謎はまだ完全には解けていない。


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