2015年2月3日火曜日

家康の敗戦経験(桶狭間と三方ヶ原)

天下人徳川家康も、若い頃は苦労の連続の人生だった。

その苦労の一つが徳川家康の旗印にあらわされている。
若い頃今川義元の家臣だった家康は、桶狭間の戦で義元が討ち死にしたことを知った時、周囲を織田軍囲まれており、前途を悲観した家康(当時は松平元康)は、祖先の墓前で自害しようと決意した。
そのとき、菩提寺(大樹寺)の住職がつぎの言葉を教えた。
『厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)』
(争いで穢(けが)れた国土を、住みよい浄土にする)のがあなたの役目と説得して、松平元康の切腹を思いとどまらせた。
それ以来、この言葉が徳川家康の旗印となっている。

ただこの言葉は戦場での武士を鼓舞するには、すこし難解な言葉に感じられる。
幼年の家康の教師だった太原雪斉だったら、どんな言葉を教えたであろうか。

さらに武田信玄と三方ヶ原で戦って大敗北し、哀れな姿で逃げかえったときは、反省のため「しかみ像」を絵師に描かせている。
最近はその絵の立体像まで作られたようだ。

浜松城が出世城と呼ばれるのには、このような反省があったからだ。

最近三方ヶ原の戦の詳細な経過を知った。
武田信玄は足利幕府と組んで、信長・家康同盟の包囲網をつくった。


今まで信玄は三方ヶ原にに北方から近づいたと言われていたが、実際には東方から近づいていた。
今まで言われていた信玄軍の進路
その証拠は信玄が東の高天神城を落城させている手紙が残っていたことだ。
最近発見された文書
信玄軍の実際の進路
そして浜松城をよけてニ保城を攻め、さらに三方ヶ原に向かった。これでは篭城していては、信長との同盟を疑われるために出城して追いかけたのは、当然の行動だったという。
 しかし信玄はそれを予想して、魚鱗の陣で待ち構えて、家康の鶴翼の陣を撃破した。

信玄と家康の陣形
 信玄の先見性に学んだ家康は、このときの信玄の作戦や陣形を、そっくり関ヶ原の戦でとりいれて石田三成にしかけ、見事に勝利して、ついに天下人への道を開いた。

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