2015年10月24日土曜日

戦艦「伊勢」の運命

私が唯一軍艦に乗った経験があるのは、昭和9年頃、戦艦「伊勢」が博多湾に寄港していたときで、小学生が乗船して見学を許された時でした。
その後の「伊勢」の運命は、いままであまり詳しく知らなかったのですが、今回その建造から敗戦までの物語の詳細をしらべると、懐かしさと悲しみの物語でした。

戦艦伊勢の写真
戦艦伊勢の模型





「伊勢」は、大正2(1913)年の建艦計画で、最初は大型戦艦4隻が計画されました。

一番艦「扶桑」、二番艦「山城」、三番艦「伊勢」、四番艦「日向」

 ところが建艦は、一番艦の「扶桑」の建艦が行われ出したところで、残る3隻が、無期延期になってしまいます。国会から、財政上の理由で待ったがかかったのです。

日露戦争が終わって8年目、前年には朝鮮半島も併合しています。「もう戦争は終わったのだ」
「だいたい海軍はカネを遣いすぎる」
「ハコモノ行政はけしからん。もっと民生にカネをつかうべきだ」
「国民の生活が第一だー!、年金を出せ〜!、政府の財政赤字をなんとかしろ〜!」

要するに現在と同じ国民の世論です。海軍は、やむなく少ない予算で、なんとかして強力な戦艦を作ろうとしました。

けれどその結果、設計に無理が出てしまったのです。新造艦の「扶桑」は、英国の新鋭ドレットノート戦艦の戦力には到底及ばないツマラナイ船になってしまったし、しかも4艦建造の予定が1艦だけになってしまったのです。


日本おそるに足らずと見た米国は、大正11(1922)年に、米国の首都ワシントンで軍縮会議開催を呼びかけました。そして、日、英、米の保有艦の総排水比率を、3:5:5と決めたのです。

日本が条約を飲むやいなや、翌年8月には日英同盟が失効し、変わって米英が同盟国となるという結果が招かれました。
こうして世界の三強国(日、英、米)は、それまでの、
日英(5+5=10):米(5)  から、  日(3):英米(5+5=10)
という、パワーバランスになったのです。
日本は、著しく不利な状況に置かれることになりました。
軍事バランスが変化したのです。日本はこれにより、東洋の「弱国」になってしまったのです。

要するに、日本が支那事変や大東亜戦争に向かわざるを得なくなったその遠因を手繰り寄せれば、それは、英国が「ドレッドノート」を建艦し、日本が扶桑級4隻の軍艦建造を「財政上の理由」から「渋った」ことが、遠因である、という説もあります。


ようやく大正2(1913)年には「扶桑」、大正3年には「山城」が建造開始となりました。

結果、できあがった一番艦の「扶桑」、二番艦の「山城」とも、なんと主砲を打つと機関が壊れるというありさまでした。

要するに、予算をケチられた状態で、無理な装備を施した結果、設計そのものにひずみが出てしまったのです。

これでは戦艦の体をなしません。しかし、刻々と動いている世界情勢の中で、あらためて一から設計しなおすだけの時間的余裕は、日本海軍にありません。


そこで「若干の改良型」として、「伊勢」は大正6(1917)年、「日向」は大正7(1918)年にそれぞれ就役させることになりました。

そして大正から昭和のはじめにかけて、「伊勢」と「日向」の姉妹は、徹底的に船体の改良をされていきます。

さらに、昭和9(1934)年、緊迫する世界情勢の中で、姉妹艦は大改装を施されました。


まず第一に、艦の主砲の最大仰角が45度に引き上げられました。

当時の主砲というのは、仰角が上がれば上がるほど、砲弾が遠くに飛ぶようになります。そのかわり命中率が下がります。

それを「伊勢」と「日向」は、砲台の仰角としては最大の45度という、限界仰角にまで引き上げたのです。

当時の主砲というのは、仰角が上がれば上がるほど、砲弾が遠くに飛ぶようになります。そのかわり命中率が下がります。

それを「伊勢」と「日向」は、砲台の仰角としては最大の45度という、限界仰角にまで引き上げたのです。

もともとは、最大仰角25度で設計された船です。
それを一気に45度に引き上げたのです。
しかも砲弾の命中率さえも向上させたのです。

これによって姉妹の射程距離は、なんと3万3千メートルにまで伸びました。なんと、33キロ先の目標に向かって正確に着弾させることができるようになったのです。


次に装甲が格段に強化されました。これで、少々の魚雷にあたっても、船はビクともしないものとなりました。

さらに新型タービンエンジンを搭載させました。船速は、25.3ノットまで引き上げられました。それでもまだ世界の標準艦には追い付かないものです。


そして新型の対空機銃や高角砲によって、対空防御力を向上させました。さらに光学機器や新型測機器、レーダー、無線を装備させました。

海軍は、なんとかして世界の艦隊レベルに追いついて行こうと努力したのです。けれど、それでもやはり船速が遅いのです。

連合艦隊の機動部隊に参加するなら、最低30ノットは出なければ、他の艦についてけないのです。


大東亜戦争がはじまったとき、ですから「伊勢」と「日向」は、練習艦として配備されました。実戦では使い物にならないとされたのです。

そんな姉妹艦が実戦投入されたのは、昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦からです。「伊勢」も「日向」も、猛烈な訓練にいそしみました。ところが訓練中に重大事件が起こってしまうのです。

昭和17(1942)年5月5日、愛媛県沖で主砲の発射訓練を行っていた「日向」の、艦尾五番砲塔が突然大爆発を起こしたのです。

砲塔部が吹っ飛びました。乗員54名が一瞬にして亡くなりました。

やむなく緊急でドック入りした「日向」は、砲塔部をそっくり外して、その穴を鉄板で塞ぎ、上に25ミリ四連装機銃を突貫工事で装備させました。


つまり主砲がない戦艦として「日向」はミッドウェー作戦に参加したのです。本来なら、対艦主砲の代わりに機関銃を設置した艦など使い物になりません。

「伊勢」と「日向」がこのとき参戦させてもらえたのは、ただ一点、試作品とはいえ、レーダーが装備されていた、という理由です。


ところが船速の遅い船です。

艦隊のはるか後方を航行しているときに、せっかくのレーダーも、まったく活かされないまま、ミッドウエー海戦では日本海軍が大敗してしまうのです。そして日本は、大切な空母をも失ってしまいました。

失われた空母力を補うのは喫緊の課題です。さまざまな商船や、水上機母艦などが、空母への改造を検討されますが、どれも帯に短したすきに長しです。


そこで結局、建造中の大和型の大型戦艦の3番艦である「信濃」を空母に改造すること、および事故で後ろ甲板を損傷して鉄板でふさいでいるだけの「日向」、「日向」と同型の「伊勢」を航空戦艦に改造することが決定されたのです。

巨大戦艦は大和・武蔵の2隻と思われているが、信濃という巨大空母もあった。

写真の説明はありません。


しかし「伊勢」も「日向」も、もともと戦艦として設計された艦です。
だから艦の中央に巨大な司令塔(艦橋)があります。

これを壊して空母に改造するとなると、完成までに1年半はかかってしまう。ならば艦の後部だけを空母にしようと出来上がったのが次の絵にある「航空戦艦」という形です。


航空戦艦伊勢の図


     航空戦艦伊勢の写真



ただ、問題があります。「伊勢」も「日向」も、艦の中央に巨大な艦橋があるのです。

つまり空母として航空機の発着陸に必要な十分な滑走路を確保できないのです。そこでどうしたかというと、まず離陸は、カタパルト(射出機)で対応することにしました。

カタパルトを使えば、離陸に長い滑走路は必要ありません。
このためカタパルトは、新型のものを備え付けました。

これは、30秒間隔で飛行機を射出できる、当時としては最先端の技術品です。これを二基備え付けました。

これによって、わずか5分15秒で全機発艦できるようになりました。これまた世界最速です。
では飛行機の着艦はどうするのか。

甲板には、着艦に必要なだけの滑走路はありません。つまり、着艦できません。そこで「一緒に航海する空母に着陸させればよろしい」ということになりました。


といって、空母側だって艦載機を満載しているわけです。
そこに「伊勢」「日向」から発進した飛行機が着陸してきたら、もといた空母の飛行機が着陸するスペースがありません。

どうするかというと「出撃後に墜とされるから艦載機の数が減る」という、いささか乱暴な理屈になったのです。
残酷な話ではあるけれど、それは現実の選択でした。

そして「伊勢」は呉の工場で、「日向」は佐世保の工場で、それぞれ大改造を施されました。

さらに航空戦艦への改造と併せて、「伊勢」「日向」には、ミッドウエーの教訓から、対空戦闘能力の徹底強化が施されました。

対空用三連装機銃が、なんと104門も配備されたのです。それだけではありません。新開発の13センチ30連装の対空ロケット砲も6基装備しました。

各種対空用の射撃指揮装置も増設し、「伊勢」と「日向」は、超強力防空戦艦としての機能も身に着けたのです。

こうしてようやく完成した姉妹は、昭和19(1944)年10月に戦線に復帰しました。

そして同月24日のレイテ海戦に、小沢中将率いる第三艦隊に、「航空戦艦」として参加することになりました。

ところが艦載機となることを予定していた飛行機が、台湾沖航空戦で全機損耗してしまったのです。つまり、載せる飛行機がなくなってしまったのです。


「伊勢」と「日向」の姉妹は、フィリピン沖で、艦載機を載せないまま、米軍のハルゼーが繰り出してきた527機もの飛行機の大編隊と戦うことになりました。

この戦いで、小沢艦隊は、空母4隻を失う大損害を受けました。
しかし、この戦いで、敢然と猛火蓋をきったのが、「伊勢」と「日向」でした。両艦あわせてほとんど損傷を受けないまま、100機近い敵機を撃墜してしまったのです。

さらに「伊勢」に至っては群がる敵機との戦闘のさ中に、自艦のエンジンを停止させ、被弾し沈没した旗艦「瑞鶴」の乗員を救助するという離れ業さえも行っています。

エンジンを停止すれば艦は停まります。停まっている艦には、爆撃機の爆弾が当たるのです。ですから本来は敵爆撃機との戦闘中にエンジンを停止するなど、まさに暴挙なのです。

ところが「伊勢」の持つ強力な対空砲火は、敵の航空隊をまるで寄せ付けない。しかも戦艦設計の強力な装甲は、敵弾を跳ね返してしまう。

だから戦闘のさなかに堂々と艦を停止させ、対空砲火で群がる敵機を片端からはたき落しながら、「瑞鶴」の乗員100名余を、助けることができたのです。

これは海戦史に残る、ものすごい出来事です。

レイテ沖海戦敗戦の結果、日本海軍は完全に制海権を失ってしまいます。日本の戦況はますます厳しさの一途をたどります。

そのレイテ沖海戦で生き残った「伊勢」と「日向」は、武装した輸送艦として、主に物資の運搬に用いられました。

航空戦艦を輸送船に使うなどもったいない話ですけれど、当時の状況下では頑丈な装甲を持つ戦艦が輸送任務をこなすことが、もっとも安全確実だったのです。

こうして「伊勢」と「日向」は、昭和19年11月、シンガポールから航空燃料、ゴム、錫などを内地に運んできました。

途中で、何度も米潜水艦に狙われたのですが、そこはもともとが戦艦です。なんなく敵潜水艦を撃退し、無事に、内地にたどり着きました。

そしてこのとき「伊勢」と「日向」が持ち帰った航空燃料が、日本が外地から持ち込んだ最後の航空燃料でした。

沖縄戦における特攻隊や、東京、大阪、名古屋等の大都市への本土空襲に果敢に立ち向かった戦闘機が使用した燃料は、この姉妹が持ち帰った最後の燃料です。

けれど最後の航空燃料を持ち帰った姉妹は、自分が海上走行するための燃料がなくなりました。

このため二艦は、呉の港の「海上砲台」として停泊したまま使用されることになりました。

終戦間近の昭和20年7月28日、呉の海軍兵廟は、米軍機の猛攻撃を受けました。

このとき「伊勢」と「日向」は、停泊したままで、まさに鬼神の如き戦いをしました。途中で大破しました。船底は、港の海底に着底してしまいました。それでも「伊勢」と「日向」の対空砲は火を吐き続けました。
そしてついに対空砲火が底をつこうとしたとき、やむなく「伊勢」と「日向」は、群がる敵機に向かって主砲をドドンと放ちました。

戦艦の主砲の威力は強大です。たいへんな爆風を伴います。

この主砲の発射の風圧によって、そのとき米軍機が、まるで空中のハエが突然死んで落下するように、パラパラと、まるで雨のように海面に落ちたそうです。

そしてこのときの主砲の発射が、日本戦艦が放つ最後の主砲発射となりました。

できそこないの船としてできあがってしまった「伊勢」と「日向」の姉妹は、いろいろな事件を経て、航空戦艦というものすごい兵器に生まれ変わりました。

そして、日本海軍華やかりし頃には、使い物にならない船として、練習艦にしかされませんでした。

その2隻が、ミッドウエーの敗戦後、戦況厳しくなった折、誰よりも活躍し、最後の最後まで抵抗する要の船となり、そして最後まで抵抗して、日本海軍最後の砲撃を行って、沈黙しました。

小学生で乗船し、巨大な主砲や、水兵さんの食事用の大窯なども見たときは、無敵艦隊の戦艦とばかり思っていましたが、ちょうど来年の大河ドラマ「真田丸」の真田信繁ような運命をたどった物語でした。





















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