2015年10月28日水曜日

大村益次郎の大村神社と墓と銅像

大村益次郎(村田蔵六)は周防国吉敷郡鋳銭司村の村田家で生まれた。
JR山陽本線四辻駅から歩いて数分の場所に益次郎生誕地の碑があり、整備された記念広場になっている。
石碑の書は山縣有朋である。
さらに国道2号線を東に行くと、長沢池という灌漑用の大きな池がある。
その奥の小高い山の中腹に益次郎と妻琴子の墓が並んでいる。
そのそばには業績を刻んだ神道碑があり、愛弟子の山田顕義の文字である。
その麓には地元の崇敬者たちによりたてられた大村神社がある。戦時中に現在の大きな社に建替えられたという。
花神の小説やドラマをかいた司馬遼太郎の記念塔もある。
社から鳥居をみると、広い長沢池が見下ろせる。
大村の考えた「将軍の術」とは、すなはち、勝つための作戦であった。
上野戦争では彰義隊を上野山に封じ込め、三方より殲滅、とどめは佐賀藩のアームストロング砲を使用し戦意を挫いた。
但し、袋のネズミにせず、根岸方面だけ逃道をあけておいた。
また事前に江戸の大火の過去分析を実施し、天候や風向きなども調査し、戦に勝つだけでなく民衆の支持にも配慮した。
すぐれた作戦とは一人のすぐれた頭脳から生まれるものである。


地元で、大村益次郎の新しい銅像除幕式が、2020年7月23日、生誕地の山口市鋳銭司であり、地域住民らが完成を祝った。

 地元の鋳銭司自治会などでつくる大村益次郎没後150年事業実行委員会(会長・岡本敏自治会長)が大村の偉業を後世に伝えようと企画。移転新築した市鋳銭司地域交流センターの敷地内に建立した。全国の約1100人から1200万円余りの寄付金が寄せられたという。

 除幕式で岡本会長は「近代国家成立に大きく貢献した大村益次郎を地域の誇りとして、地域への自信が生まれ、勉学に励み未来に挑戦する多くの若者が育っていくことを願っている」と述べた。

 大村は幕末に長州軍を率い、「日本近代建軍の父」として知られる兵学者。教育者としても活躍し、幕府の洋学所で教壇に立ち、私塾を開いて若者を育てた。

 銅像は高さ1メートル55センチ。東京の靖国神社にも銅像があり、「軍神」のイメージが強い大村だが、教育者としての側面に焦点を当て、地球儀のそばで講義する姿を表現している。
 

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