2015年11月18日水曜日

廣岡浅子が経営した炭鉱


NHK連続テレビ小説「あさが来た」で紹介された広岡浅子(安川敬一郎と同年)が経営した飯塚の炭坑をしらべると、牟田炭鉱・潤野炭鉱・日鉄二瀬炭鉱である。
そのころに 石炭の重要性が知られ始め 広岡家も九州福岡県飯塚の潤野炭坑などの経営をはじめ、帆足義方に運営を任せていたが、経営状態が悪くなる。
広岡浅子自らが潤野炭坑にやってきて、炭坑の荒くれ男を使い多くの困難を乗り越えて経営の建て直しに成功する。
明治32年富国強兵の国策で 官営・八幡製鉄所が造られ、製鉄に必要で良質な石炭を調査する中で 潤野・高雄炭鉱が良質炭の為に、国の買収を受け 官営・日鉄二瀬炭鉱となる。広岡浅子は、大金を得て大阪に戻る。

広岡浅子(ドラマでは、白岡あさ)は、京都・出水三井家の出身で、大阪の豪商・加島屋に嫁ぎ家業を立て直し、筑豊の炭鉱経営を経て、日本女子大学の創設に尽力し、大同生命の設立に携わりました。

江戸時代末期・明治・大正の激動の時代を駆け抜けた浅子の生涯の中で強烈に印象付けるものは、筑豊の炭鉱・潤野炭鉱(ドラマでは、加野炭鉱)とのかかわりです。

明治19年(1886年)に夫の広岡信五郎(ドラマでは、白岡新次郎)は、福岡県穂波郡潤野村(現 福岡県飯塚市潤野)にあった潤野(うるの)炭鉱(ドラマでは、蔵野炭鉱)を買収し炭鉱主となりました。

潤野炭鉱は、明治16年に帆足義方が採掘を始めていた炭鉱でした。帆足は元々軍人だったが、西南戦争で九州を訪れた時に炭鉱業の将来性を見越して軍を退職、そのまま筑豊で炭鉱業を 始めていた。

明治初期の筑豊炭鉱は、江戸時代の福岡藩の統制がなくなり、一攫千金を夢見る旧藩士や農民、村役人たちが手がけました。その後国の政策と指導により大手資本が進出し、出炭量は増大し全国有数の産炭地となりました。
然し、当時は、新興産業で小炭鉱の多い筑豊は、群雄割拠の状態でした。明治10年(1877年)代には、600余りの炭鉱がありました。
その後、機械化が進み、大規模化する採掘には豊富な資金が必要でした。大阪や東京にも出資者を求め、浅子もそんな時代の流れに沿って筑豊飯塚の潤野炭鉱にやってきました。
    (以上飯塚歴史資料館の資料より)
いま現地で見学できるのは
牟田炭坑跡 --牟田炭坑巻上げ機台座跡 --
潤野炭坑跡(現在・嘉穂高校と若菜小学校)-- 災害死者の碑 --潤野炭坑ボタ山跡(若菜上水タンク)
日鉄二瀬中央鉱(現在・イオン・ジャスコ)--旧日鉄正門碑 

 

嘉穂高校正門:



この南東約100Mの墓地(飯塚市潤野120番地45 (字登々樹)の 中にある 潤野炭坑災死者の碑: 

「これは明治36年1月、潤野鉱本坑において死者64名を出すガス爆発事故があった。 同碑の裏面には、殉職者64名 の名が刻まれ、そのなかに女坑夫17名の名も記載されている。」
 ただし 広岡浅子所有の元炭鉱であったが、災害当時は既に 日鉄二瀬潤野鉱に売却後の災害である。
ここには戦後石炭ブームの頃、私の友人も就職して働いていた。
 
 またこの潤野地区では、戦国時代に宗像氏と大友氏が勢力争いをして、立花城の若手武士立花宗茂や薦野増時らが初陣で活躍した場所としても知られている。

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