2015年11月28日土曜日

貝原益軒と養生訓

貝原益軒の肖像図

数年前「歴史彩発見」の行事で、篠栗町の歴史資料館が、貝原益軒の生涯展を開催した。なぜ篠栗町で?という興味もあって、でかけてみた。
黒田藩士の子として福岡城下町でうまれ、墓も今川橋の金龍寺ある。


しかし父の貝原寛斉はいわゆる転勤族であったから、益軒は8歳から11歳にかけて父とともに篠栗の八木山に住んで、野山をかけめぐり博物学の基礎を身につけたという。12歳には怡土郡井原村に転居したそうだ。
多くの著書や関連の史跡の写真などが陳列されていた。


昨日はテレビで彼の「養生訓」をテーマにした歴史ドラマをみた。
83歳で養生訓をかき、当時としては超高齢の84歳でなくなった。
その秘訣は、彼自身が幼少期から病弱であり、眼病・胃炎・痔などでくるしんだ。
それを克服するためにいろんな医学や本草学など書物をよみ、それを自身で実証してみて、有効なことを実行し続けたことにあった。さらに妻の東軒も病弱であったので、彼女の病に対しても、いろんな実証を試みたという。

養生訓の教えの3重点は、1)腹八分、2)よく歩くこと、3)あっさりした食物で、現代でもよくいわれることだ。
そのほかストレスを持たぬように心がけ、音楽をたのしみ、酒も少量ならとすすめている。
彼が演奏していた琵琶の楽器が、箱崎八幡宮に残されている。
養生訓の記事内容の八割は、現代医学でも正しいとされているそうだ。
ただ22歳も年下の妻をもつことは、ちょっと真似できない。

ご子孫の貝原守一博士の「貝原益軒養生訓」は、戦時下昭和18年に福岡市で発行され、博士は惜しくも戦死されたので、稀覯本となっている。
博士は九州帝国大学医学部細菌学教室の助教授であり、その注は医学的には勿論のこと文献学的にもきわめて価値あるものである。
その他ご子孫には、整形外科医や高校教師などおられるようだ。
現代では、昆虫学の養老先生の活動が、益軒の姿を連想させる。


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