2016年7月2日土曜日

家康と秀頼


関ヶ原の決戦後、慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議勧修寺光豊勅使として伏見城に派遣し、朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当右大臣に任命した。
武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、木曽義仲、源頼朝、足利尊氏などの前例がある。


家康は同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。
しかし家康は2年後の慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。
慶長16年(1611年)3月28日、家康は二条城にて秀頼と会見した。
家康にとって秀頼は孫娘の婿であり、本来は愛顧の人物だが、東西対決の時勢で、会見出来ずに過ごしていた。
当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、家康は織田有楽斎を仲介として上洛を要請し、加藤清正らの説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示した。
しかし最晩年を迎えていた家康にとって、豊臣氏は最大の脅威であり続けた。一大名の位置に転落したとはいえ、なお特別の地位を保持しており、実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名だ。












また、家康の将軍宣下時には、秀頼が同時に関白任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時には秀忠の内大臣であったが、秀頼は家康の引退で空いた右大臣を譲られている。その身長も190cmの立派な体格に成長していた。


しかも、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れていたが、それが天下に乱をもたらす準備であるとして一層幕府の警戒を強めた。
京の町にはこんな落書もみられたという。
このような危機感から、家康は新しい政策を打ち出しながら、遂に大阪の陣への決断をした。その後の歴史は次の通りである。


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