2016年7月4日月曜日

二条御所と二条城

二条御所と二条城はまぎらわしい。

二条大路は朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、ここより
北が京の街(上京)といわれ、南は下京とされていた。

1)足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を「二条陣」といい、その後3代将軍足利義輝の居所、「二条御所武衛陣の御構え」となった。
2)室町幕府15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって作られた二条御所は二条通からは少し離れていたが、城域の南部分がわずかに含まれるので、義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれる。

3)織田信長が天正4年(1576)に、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」は、二条通にも面さず条坊制の二条にも属していないが、二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる。
天正10年(1582)に本能寺の変が起こると、信長が宿泊する本能寺が明智光秀の軍勢に包囲された際、妙覚寺に宿泊していた嫡男、織田信忠は、二条御所に入り、明智勢と戦い自害して御所も焼失しました。

4)現存する二条城は、徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城で二条通りをまたいでいた。

しかも南北の路線より3度ずらして造られたのは、西洋の天体知識をはやくも取り入れたものだった。

此処で家康は朝廷や秀頼との会見を行い、天下統一を推進した。

明治維新以後は朝廷の別邸となり、葵の紋はすべて菊の紋におきかえられている。



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