2017年8月19日土曜日

アメリカ空軍の舞台裏

飛行機はアメリカのライト兄弟により開発された。
しかし第2次世界大戦がはじまる1941年当時、アメリカの空軍力は世界で6位だった。
陸軍の組織のなかでは、空軍力はまだ軽視されていた。
ミッチェル将軍だけは、1925年頃から航空戦の時代を予言して、その強化を要求していたが、幹部と衝突して退役処分となった。(終戦後名誉回復された。)
アーノルド将軍

彼の意思を受け継いだアーノルド将軍は、真珠湾戦争をチャンスとして、空軍強化のリーダーとなり、B-17、B-29などを製造し、欧州と太平洋で、空爆の実践をくりかえした。

またアーノルドは空軍を陸軍から独立させようとしたが、すぐには実現せず、ただ指揮権だけは自分のものとした。(空軍独立は終戦後に実現)

空軍の指揮官としてハンセル将軍がえらばれた。

当初は、軍事基地や軍事製造所を目標とした精密爆撃を計画し、ノルデン照準器を開発したが、B-17の5000mでは敵の反撃による被害が大きく、B-29の10000mでは目標的中率が低くて戦果を挙げられなかった。

特に日本上空は偏西風が強く1944年の中島飛行機工場空爆では的中率は2.5%にすぎなかった。

1945年にはいり、幹部の批判が高まる中で、アーノルドはハンセンを引かせ、ルメイ将軍を起用して焼夷弾による都市爆撃への方針転換に踏み切った。

陸軍が11月に本土上陸をきめたので、その前の10月までに180の都市を焼失させて、日本人の戦意を消失させようと計画した。
最初に選んだのは、東京の下町であった。
その後大都市の焼失作戦を展開していった。

4月にムッソリー二やヒットラーの死亡、6月に沖縄陥落後も、日本は降伏せず、7月のポツダム宣言も拒否して、本土決戦の構えを崩さなかった。

そこに原爆開発実験成功のしらせが7月に入ったので、空軍もこれを最後の決め手にしたのである。

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