2017年8月11日金曜日

玄界灘沿岸の戦争遺跡と本土決戦


花田勝広氏は宗像出身で、奈良大学で考古学を学び、滋賀県野州市教育委員会で 銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)に関わり、郷里宗像の田熊石畑遺跡の保存運動にも積極的に参加し、「古代の鉄生産と渡来人」という著書などもある考古学者である。


沖の島の考古学的調査を行ううちに、島に残された戦争遺跡に歓心を持ち始め、2001年に防衛庁の資料公開が始まったのを契機として、玄界灘沿岸の戦争遺跡の調査をはじめたという。
2016年8月に「北部九州の軍事遺跡と本土決戦」という著書をだされ、2017年8月に古賀市の企画講演会でその概要を話された。




詳細なレジメ付きの講演で、私の19,20歳時代の歴史なので、興味深く拝聴した。その要点をわたしなりにまとめておく。





沖縄陥落後の本土決戦は、11月に米国は志布志湾上陸をオリンピック作戦と名付けて計画していた。日本軍部は宮崎海岸、吹上浜、北部九州の3ケ所を想定して、対戦計画をたてた。
私の知人で二人ほど小隊長として宮崎海岸の守備についたが、地元の守備は群馬、栃木の部隊だったようで、一人も知人がいなかった。
上の図の海岸線地帯には旧式の砲台と、塹壕がつくられて、散兵戦的な防備であった。津屋崎から福間、古賀、新宮の間に約14000人の兵士が配備された。
赤色に塗った奥地の宮田町あたりに戦車連隊の基地が設けられ、敵の上陸地点に向かって出撃する作戦であった。
その他、津屋崎飛行場が航空兵養成のためにつくられ、福間の山手には航空補給廠がつくられ、専用鉄道も引かれた。
当時の弾薬倉庫の一部が、今ものこっている。



地元古賀市でも小野小学校付近に通信隊基地、西小学校付近に砲台が設けられた。

しかし終戦とともに、砲台、塹壕、飛行場、建築物などはすべて撤去され、70年以上経過した現在では戦争遺跡として顕著に残っているものは殆どないのが実情だ。
畦町近くの高宮(古城跡)に、地下壕の排気口跡が残っている程度らしい。私も学徒動員で佐世保港の山奥に弾薬庫を掘った体験があるが、いまの姿が気がかりである。


沖ノ島にも砲台2基と弾薬庫、観測所、電信所などが築かれ、250人もの陸海軍兵士が駐屯していた。航空機時代となり、砲台の活躍する機会は全く亡くなり、8月には博多港まで大砲を運び、福間の手光地区に据える予定のときに終戦を迎えた。弾薬は食料補給が途絶えたので、魚を捕獲するために使われ、事故死もあったという。
神宿る神秘の沖ノ島として世界遺産に登録された現在は、戦争遺跡を残してはならない島となった。

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