2017年8月21日月曜日

江戸時代の海外政策

(1) 江戸幕府初期の古賀地区

今年は江戸幕府が開かれて400年、徳川将軍家15代のスタートの年です。
当時を郷土史の観点から振り返って、思い付いたことを幾つか書いてみます。

1600年の関ヶ原の戦は戦国時代の優勝決定戦で、勝利をおさめた徳川家康は 、全国に譜代の大名や同盟の大名を配備して、安定政権を確立します。

筑前には黒田長政が入国し、西軍についた立花宗茂は一旦奥州にあずけられたあと 柳川にもどされています。

黒田長政は福岡に城を建設したので、かって立花城の城下町だった小竹、青柳、 こも野などは政治の中心から遠ざかり、一国一城の制度で、こも野城も廃城と なってしまいます。

かって栄えた博多の貿易港も、江戸幕府の政策で長崎港に移されて、豊臣時代の 幹線であった唐津街道も、その後に整備された長崎街道にお株をとられていまい ます。

現在の古賀地区は平凡な農村にもどり、おそらく人口も減少したでしょう。
1658年には花鶴浦の漁業権も新宮浦と福間浦に分譲されて、消滅しています。

唐津街道も、唐津海道とよばれ、九州西南部の藩の参勤交代の道路となり、青柳宿場も1700年頃は100軒程度、1800年頃は200軒程度まで増加しました。
1819年の大火で89軒に減少したが、その後150軒程度にもどりました。
たまに外国人が宿泊、休憩することはあっても、海外との交流は全くなかったようです。


(2) 天皇と将軍と幕府

将軍とは正式には征夷大将軍のことで、天皇が任命する軍隊の長官を示す役職名です。
しかし天皇が貴族化し、武家が実質的に政治の指導権をもつようになったときに、 天皇と分離した幕府政治を最初に発想したのは、源頼朝です。

それまでは、武家の平氏は藤原家と同じように、天皇家との婚姻政策で政治の中核に近付いて政権運営をしていました。

西洋では武力革命をしたものが王家となり、政権を獲得してきましたから、頼朝の 幕府政治は世界史上ユニークな政治形態だと評価していいでしょう。

義経などはこの政治形態を理解できずに天皇家に近付いたために、頼朝との溝が深まったと思います。

家康はかねてから頼朝の政治形態を理想モデルとしていたので、征夷大将軍となり江戸に幕府をおいて、天皇家と距離をおいた政治を行いました。

天皇と将軍の2極政治は、外国からみると分りにくく、みかどと将軍の使い分けに苦労した例がいくつも出てきます。多神教的な日本にしてはじめて成立した政治形態といえます。



(3)将軍と対外政策

わが国の歴史教科書には、徳川三代将軍家光の時代に「鎖国令」が出されたと例外なく書かれています。そのために日本は近代化に遅れをとり、明治維新になってやっと西欧諸国に追いつけ追い越せと努力したというのが通説になっています。

しかしこれは歴史の一面であって、他の一面を無視した見方だと思います。ここでは将軍側にたって少し別の一面を考えてみます。

鎖国という言葉を幕府が使用した史実はなく、長崎商館のドイツ人医師ケンペルが、その著書日本誌に「to keep it shut up」と表現したのを、1801年に通詞志筑忠雄が「鎖国」という新語をつくって翻訳したのがはじめです。

幕府の正式文書は寛永十年の令、寛永十六年の令であり、たしかにキリシタン禁止令、海外渡航の禁止令、貿易の国家統制令をだしましたが、将軍には鎖国という言葉がもつ「国を閉ざす」ような閉鎖的意志は全くなかったようです。

将軍の意志は、外国のあやしげな領土侵略をめざす宗教を断固拒絶し、独立国家としての体制を確立した外交政策でありました。拒否した外国とは当時すでに落ち目のポルトガル、スペインで、新興で領土侵略のないオランダとの貿易に制限しますが、その貿易額は寛永時代以後のほうがむしろ増大しているくらいです。

朝鮮の李王朝や沖縄の琉球王朝との交流も再開しており、明国やその後の清国との貿易も継続しています。オランダとの交流には、取り引き商品のほかに、欧州の情報を伝える「オランダ風説書」が重要視され、西洋事情に関する書物の出版点数は江戸時代にはいってから急増していることでもわかるように、決して国を閉ざして、泰平の眠りをむさぼっていたわけではありません。

むしろ鎖国を失政といいだしたのは、右翼的思想家徳富蘇峰で、昭和初期に日本が植民地分割競争に遅れをとったのは鎖国のためで、国家利益の大いなる損失であったという説です。
また戦後に和辻哲郎が、敗戦の原因を科学的精神の欠如として、鎖国が西欧の合理主義的精神の欠如をもたらしたと論評しています。

しかしこれは歴史を無視したイデオロギー論であり、その根底には西欧文明に対する劣等感があります。

将軍は日本の国家安全保証上の観点から交流国の制限はしましたが、世界と断絶するような愚かなことはしていません。中国におけるアヘン戦争のような国際状況を監視しながら、海外進出をしなくても、国内での生産性を高め、金、銀、銅の貨幣素材を国内で自給し、鉄砲を捨てて国内平和をなによりも大切にしてきたことが、徳川300年の平和につながり、現在の敗戦後の日本繁栄の基盤になっていると思います。



(4) 将軍と李朝国交回復

太閤秀吉の死後、将軍家康はなんとか朝鮮国王との国交を回復しようと試みました。
その交渉の任務にあたったのが対馬藩主宗義智です。

秀吉の朝鮮出兵のあとですから、この交渉は当然難航します。3度送った使者は、明の駐留軍にとらえられて北京に送られてしまいます。当時の朝鮮李王朝は中国の明の支配下にありましたから、明の意向が重要な指針になっていました。

4度目の使者がようやく返書をもらって帰国しましたが、講和の条件ととしてまず、俘虜の返還を要求してきたのは当然です。宗藩主は李朝と江戸幕府の間にたって再三の交渉を重ねて、1605年に将軍家康と李朝の使者を伏見で引き合わせて、俘虜3000人を返すことで、交渉は軌道にのりました。

しかし双方の国書の交換段階で、日本側から国書を送って和を請う形式を、体面上幕府は承知しないため、対馬藩の智恵として偽造された国書をおくって、国交再開に漕ぎ着けました。背景には李朝も明の軍隊の横暴に苦しんでいたので、日本との交流を希望していた事情もあったようです。

講和条約が成立以降、朝鮮通信使は1607年から1811年の間に12回にわたり来訪して、江戸幕府で将軍に謁見していることは、日本史で有名です。

通信使は、釜山から大阪まで水路ですすみ、上陸後は陸路で江戸まで東海道をのぼって、将軍に謁見しています。

郷土史上は、その使節の旅程中に「相の島」での宿泊があり、黒田藩がその接待の任にあたっていたので、多くの資料が残されています。

使節団は約500人で、随伴者をいれると千人近い人数となり、一泊から天候次第で九泊の滞在となったので、その接待側の準備も大変でした。

黒田藩の領民とくに漁民は1年まえから準備にかかり、この行事のために費用を蓄積しておき、水夫などの役目のために、日々の生活をすてて動員されました。

しかし航海途上の宿泊であったため、郷土には李朝文化のなごりが殆ど残されていないのは残念です。


(5)ポルトガルとオランダ

ヨーロッパの大航海時代の先端をきって海に出て、戦国時代の末期に日本にやってきたポルトガルとオランダの本国の事情は、かなり異なっていました。

ポルトガルはイベリア半島の西端にあり、背後のスペインが次第に統一されて強国になり、その圧迫をうけました。リスボンのテージュ川河口や郊外のナザレー海岸の白浜にたって一面の大西洋をみると、海に出るほかに発展のみちがなかったことが実感されました。

リスボンの商人は大形貿易で巨大な利益をあげ、王室はその利益を関税を吸い上げて潤った反面では、農業などは荒廃して国民経済は衰退して、やがてスペインの属国化していきます。海にでた男性船員の死亡率はたかく、国に残った女性の悲しみが、ポルトガル独特の「ファド」という哀愁をおびた歌となって残っています。

オランダはライン川河口のデルター地帯に住みついた人々の市民国家的な色彩の強い国で、1581年に独立宣言をしてからその独立が承認されるまでに67年もかかっていますから、1600年に日本に来た頃はまだ正式の国家ではなかったわけです。

ナポレオンなどは1日で平定できると豪語していたくらいの狭くて条件の悪い土地ですから、やはり海にでるほかに発展のみちがなかったことは、ポルトガルと共通しています。

アムステルダムの博物館をのぞいたときに、沢山の古伊万里焼きが展示されているのに驚きましたが、江戸時代の日本とヨーロッパの貿易を殆ど独占していたのですから当然のことだと、あとで納得しました。

ポルトガルの商人は王家とキリスト教会の支援を得て、日本にやってきたので、貿易と同時にキリスト教の布教に熱心でした。やや十字軍的な気概にあふれていて、長崎では、信者となった大村藩主から教会領をもらいうけたり、日本の神社やお寺を焼き払うなどの行為を行いました。

またマカオでは有馬藩の御朱印船とトラブルをおこしてこれを爆破したり、最後には
「島原の乱」の後押しをしたので、完全に日本から追放されます。

オランダは市民国家でありプロテスタントですから、貿易に専念してキリスト教の普及には無関係なことを強調しました。幕府は島原の乱で原城の攻撃を命じて、オランダ船は実際に原城を砲撃しました。これが決定打になって、幕府はオランダとの貿易に決定しました。
司馬遼太郎さんによると、当時はポルトガルを「南蛮」とよび、オランダを「紅毛」とよんでいたそうです。たしかにポルトガル人は紅毛ではなく黒髪に近いほうです。江戸初期には「南蛮流外科」がはやり、やがて「紅毛流外科」の看板に変わったそうです。江戸末期のシーボルトの頃になると、「蘭方医学」となり本格的な近代医学に近付きました。

(6) 貿易港;平戸、横瀬、長崎

織豊時代には、異国船の寄港先を特定する規則はなく、むしろ異国船のほうで港や領主の条件を選んで、交渉していたようです。

ポルトガル船を最初に日本に案内したのは、明末期の中国の貿易首領の「王直」という人物です。王直は薩摩の坊津にも唐人屋敷をもっていたくらいで、平戸にも出入りしていたので、まづポルトガル船を平戸につれてきました。

平戸の領主の松浦氏は、貿易は希望したがキリシタン嫌いで、鉄砲の輸入をするために部下を入信させたりしますが、交渉がなにかとうまくいかずに、ポルトガルは平戸をあきらめて、横瀬に移動します。

横瀬はあまり知られていませんが、西海橋の北西部にある湾で、佐世保湾を小形にしたような港です。領主は大村忠純で、即時に横瀬の開港をゆるし、横瀬浦の土地の半分を、キリシタン領として献上することを約束します。

早速教会ができて、忠純をはじめ多くの受洗者ができて、キリスト教と南蛮貿易の中心地となります。しかし大村藩のなかの反忠純派の後藤貴明を中心とする軍隊が、夜襲をかけて焼き払ってしまったため、横瀬港は約2年あまりで消滅してしまいます。

横瀬をおわれたポルトガル商船隊とイエズス会は、南下して一旦長崎湾の入り口の「福田」を錨港としますが、最終的には一番湾の奥の「深江」(現在の長崎)に上陸します。領主は忠純の家臣の長崎甚左エ門で、二人とも洗礼を受けていましたから、交渉は順調にすすみました。1571年の頃ですが、またまた竜造寺の勢力が攻撃をしかけてきます。

甚左エ門は2度にわたり防戦に成功しますが、忠純はいっそ教会領にしてしまえば、ポルトガル船隊が領土を守るであろうと考え、長崎を寄進してしまいます。

このままであったら、長崎はマカオのようなポルトガル領になっていたかも知れませんが、この頃秀吉の九州統一が進み、長崎の実体を知った秀吉は驚き、早速長崎の教会領をとりけして官領にします。

1600年に来日したオランダは、最初は空家になっていた平戸に入港して、オランダ商館をつくりここを拠点にしました。

秀吉の後を引き継いだ将軍家康は、当初は貿易を自由に行わせていましたが、次第に制限を強化して、長崎に出島をつくってポルトガル人の居住を出島内に制限します。最終的にはポルトガルを追放して、オランダ商館を平戸から長崎の出島に移動させ、オランダだけを西洋の貿易国としたことは、前にのべた通りです。


(7) 長崎出島 

海外旅行といえば、わたしは今まですべて空港から出国したのですが、昨年はじめて博多港から高速船にのって釜山まで往復しました。 壱岐や対馬の島をながめながら魏志倭人伝のむかしからの航海ルートを楽しみましたが、将軍の時代は当然外国往来はすべて船によるものでした。

ポルトガル船隊が平戸から横瀬を経て長崎に移ったことは前に書きましたが、ポルトガル人も最初は長崎浦の町に居住していました。しかしポルトガルの船員たちが、異国の風俗習慣に慣れないためと、言葉の問題で意志の疎通を欠いだため、往々にして飲酒の上で乱暴狼藉を働くとか、日本女性との間にトラブルを起こすなど、とかく問題が絶えません。

そこで幕府は彼等を一ケ所に居留させて管理する必要があり、またキリシタン取り締まりのためにも、宣教師を閉じ込める効果もあるので、出島という人工島の築造を計画します。これにより出入国の管理と民事のトラブルや密輸禁止などを強化いました。

約2年の期間に、ほぼ4000坪の扇紙形の島を埋め立てて、当時の大形船が横付けできる桟橋と岸壁もできました。この建設にはかなりの費用がかかるため、幕府は民間資本を導入しました。

即ち長崎の有力な商人25人にかなりの出資をさせ、その代償としてポーランド人から居住費用を年間80貫をとることや、貿易上の特恵待遇を与えるなどしました。出島にはカピタン(商館長)や職員、商人、料理人など約20人が居住できる住居と、貿易用の商品倉庫や食品倉庫など、2列の建築物が並んでいました。

商船は7月末から10月初めまで滞在しますが、船員はその間上陸出来ず、船の中で生活させられました。商人たちも出島から上陸するには厳重な規則があり、彼等の表現では「牢獄の出島」といわれていたようです。

やがてポルトガル人が追放されて、出島は空家になってしまいます。多額の先行投資をした長崎商人は困ってしまい、幕府に泣きつきます。そこで幕府は平戸にいたオランダの商館を長崎に移すことにします。

オランダ商館は出島の不自由さを知っていましたから移転をいやがりますが、幕府は無理矢理に移転を強行させます。そのかわりに1年間の居住費用を55貫目に引き下げたようで、これは幕末まで長崎商人の変わらぬ収入となりました。

現在は出島町の地名が残っているだけで、周辺はすっかり埋め立てられています。この記念すべき出島の跡地の周辺に「掘」を復活させて、そのなかに昔の建物を復元しようという長期計画が長崎市ですすんでいます。建物の一部は出来た様ですが、「掘」まで完成するのはまだ10年くらいかかりそうです。



(8) 長崎奉行  

長崎貿易を直接管理するのが長崎奉行で、秀吉が長崎を公領にしたときから設けられました。唐津藩主寺沢広高は名護屋城普請や明との講和条約などに活躍し、秀吉時代に最初の長崎奉行をつとめました。

寺沢は関ヶ原戦では東軍につき天草2万石を加増されますが、長崎奉行には徳川譜代大名の小笠原為宗が任命されます。将軍家康がいかに長崎奉行を重視していたかの現れです。さらに3年後には側近で腹心の長谷川藤広を長崎奉行に命じ、長崎貿易を幕府の直轄事業へと行政管理体制固めをしていきます。

たとえば当時ポルトガル船が運んできた生糸は、関ヶ原戦後の混乱期で殆ど買手がつかないために、まず幕府が必要な量を買い付け、あとは京都、堺、長崎の豪商グループに買い取らせて、他の商品の取り扱い権利を与えたりしました。これがのちの糸割符法のおこりとなりました。

貿易の行政管理には利権がともなうため収賄事件がおこりやすく、またその後のキリシタン禁止令の強化にともなう管理業務もふえたために、長崎奉行は2人制になり、多い時には4人制の時代もありました。

幕府内の組織といては勘定奉行(財務省)と町奉行(警視庁)に属する旗本が任命されることが多く、なかには大目付(総務省)の部下も選ばれています。任期も比較的に短くて、4年前後で交代しています。

遠山景普は、蝦夷、奥州、対馬などの海外防衛の指導で活躍したあと、長崎奉行に任命されて、赴任の路程で古賀市の青柳宿に宿泊した記録があり、最後には勘定奉行(財務大臣)にまでなっています。その子は後に北町奉行となった有名な遠山景元(金四郎)です。したがって長崎奉行は幕府官僚の出世ルートになる要職であったといえます。

(9) 長崎警備

長崎港で外国船の出入りには、いろんなトラブルが起ったので、その警備体制はいろいろの対策が行われました。

警備軍の役目は福岡の黒田藩と佐賀の鍋島藩が1年交代で努めることになっており、当番の年には船30隻と兵士約800人を駐留させることになっていました。

オランダ船が規定の時期に入港してきたときには、まず長崎湾の入口でその艦旗を識別します。旗も毎年変更して事前に定めた旗をかかげていることを確認します。つぎに通訳をなせた船で近付いて、オランダ語で話しかけて、オランダ船かどうかを確認します。さらに乗船人名簿、積み荷目録、オランダ風説書(各年の海外情報報書)、 手紙類などを受け取って、ようやく出島に近付くことを許します。

それでもオランダ以外の船が紛れ込むときがありました。その時は枯れ草を積んだ小舟で取り囲んで、焼き討ちにする戦法をとりました。

イギリス船のときには、船の帆に火がついて燃えおちて、火薬庫が爆発して沈没しています。

ポルトガル船の時には、黒田藩も博多商人の長崎出店の協力をえて、周辺の村のわら屋ごと買い占めて小舟に積んだという記録があります。この時活躍したのが、青柳出身の伊藤小左衛門などで、この功績で黒田忠之から永代50人扶持を与えられました。

また外国船だけでなく、積み荷をねらった盗賊やあの手この手の巧妙な手口で密貿易を営むものも絶えず、その取り締まりも長崎警備の仕事でした。

そのなかに博多商人が絡んだ事件も多く、その代表的なものに伊藤小左衛門の事件があります。真相はいろんな説がありますが、とにかく伊藤家は断絶させられます。

のちに忠之はこの処分は生涯の過ちであったと後悔したということですが、黒田藩にとっても痛手だったようです。

(10) 長崎街道(シュガーロード)

江戸時代には長崎と江戸を結ぶ長崎街道が九州のメインルートとなりました。しかもこのルートは別名シュガーロードといわれています。

当時は砂糖が貴重品であったため、オランダ船はジャワや台湾で仕入れた砂糖を日本へ運びました。これが最大の利益をあげたといわれています。

船は帆船ですから安定のために船底にバラスト(重り)を積みます。最初は石ころを積んでいましたが、ゆれるたびにごろごろと転がるので危険です。そこで砂袋を積むことに変えましたが、これがヒントとなり砂糖袋をつめばバラストと商品の一石二鳥の効果がえられることを思い付いたわけです。

金平糖をオランダ人が将軍に献上したことからはじまって、この砂糖輸入で、日本の和菓子は九州から急速に発達しました。

長崎のカステラ、マルボーロ、小城の羊羹、博多の鶏卵そうめん、近代では佐賀のグリコ、飯塚の千鳥まんじゅうなどなど、砂糖がはこばれた各宿場で和菓子がつくられました。

さらに京都や江戸でも和菓子の発達はすすみましたが、、そのルーツは長崎でした。

(11) 将軍拝謁

オランダ商館長(カピタン)は毎年江戸に参府して、将軍の謁見をうけることになっていました。これに同行できる異国人は数名であり、医師や特殊技能者が主でした。
しかし同行の一行は献上品の運搬人や通訳や護衛の兵士などで、100名くらいになりました。普通の大名行列が60人くらいですから、それよりも豪勢な行列です。ただ前に紹介した朝鮮通信使の500人には及びませんが。

長崎から江戸までは普通の旅程では90日ですが、オランダ行列はあちこちで見物するために、140日も費やした例があります。その間に地形や気温、民衆の風俗や習慣、動植物や薬草まで調査した記録が残っています。

オランダ商館に来た4大学者、カスパル、ケンペル、チュンベル、シーボルトなどはのちに詳細な日本の記録書を出版して、これが欧州人の日本研究の基本になっています。

江戸では将軍に拝謁するとき、通常は簾のなかの将軍に平身低頭するだけでしたが、将軍綱吉だけは、いろいろと諮問をして、西洋の踊りを実演してもらったりしたようです。

松尾芭蕉の句に、「カピタンも つくばはせけり おらが春」と詠んだものがあるようで、元禄時代の将軍の威厳を思わせます。

江戸の街をいくオランダ行列図や、オランダ人専用の宿屋「長崎屋」の浮世絵などがあり、江戸文化の異国情緒を示しています。

(12) 異国情緒

江戸時代も元禄のころになると、すっかり平和が定着して、将軍や大名が独占的に楽しんでいた異国情緒も、一般庶民にまで浸透してきました。

オランダからの輸入品も、生糸や毛織物、更紗などから、象牙、指輪、耳飾り、時計、などの装飾品や遠眼鏡、板ガラス、西洋の遊技品など多種類の製品になり、さらに薬品や外科の医療機械などもふくまれるようになりました。

オランダ商館では毎年正月に、出入りの日本人(通訳、商人、職人など)を招待して、西洋料理を出したそうです。ナイフやスプーンで、一品ごとにお皿が変わる食事形式に皆緊張したそうです。皆が口にする料理はわずかな量で、あとはみんなお皿にいれて持ち帰り、親類縁者におみやげとして渡しました。従って日本で西洋料理が民衆に広まったのは、長崎からということはたしかです。

オランダ船は、北海の四角帆と地中海の三角帆を組み合わせた三本マストの船で、当時ではもっとも性能のすぐれた船でした。こらが異国情緒豊かな宝物を運んでくるのですから、商品もさることながら、船を見物したいという客も沢山いたようです。

蘭船遊覧絵図という絵巻が当時の絵師により書かれており、商人や僧侶までが婦人同伴で船にのって、オランダ船の周辺を巡行している風景が画かれています。

松尾芭蕉も、奥の細道の旅のあとに九州の旅を計画していて、長崎出身の高弟、去来にだした手紙には、大阪から天の橋立をへて長崎にわたり、異国船をみて、不知火、霧島、薩摩潟などを訪ねたいと書いていますから、江戸の旅好きには、異国船見物は欠かせぬツアー内容になっていたようです。

病のため芭蕉の計画は実現しませんでした。去来や支考などの高弟が長崎に集まって、芭蕉を偲ぶ句会を開いています。長崎は江戸時代のハウステンボスだったといえます。

話しはオランダの方にかたよりましたが、藍島(相島)と出島はどちらも扇紙の形をしており、そしてどちらも東洋と西洋の異国情緒を九州経由で日本に持ち込んできたことは共通しています。

幕末になると、米、露、英、仏などの各国が、開国を迫り、明治維新へとなりますが、この話しは尽きないので、ひとまずこの辺でこのシリーズの筆を置きます。



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