2017年9月11日月曜日

城井(宇都宮)鎮房が謀殺されたのは馬ケ岳城か?



黒田孝高・長政父子に謀殺された、城井(宇都宮)鎮房と朝房親子。


鎮房の謀殺場所は豊前中津城で行われたと云うのが定説だが、最近の説では同じ豊前でも、北西側の馬ヶ岳城だという。

そこで馬ヶ岳の山麓まで、でかけて見た。

背景の山が馬ケ岳(家内と次男)

その理由は、中津城完成時期と謀殺時期が同じ時期なので、落成直後の御殿で殺戮するのは何か不自然ということだ。

文献でも、『陰徳太平記』には、黒田孝高・長政による城井鎮房謀殺の舞台は、中津城ではなく、馬ケ岳城と記されている。

さらに最近、朝房の孫の信房の手紙がみつかった。
孫の信房は、熊本で浪々生活をしていたところを、鎮房・朝房の遺臣に発見されたという。

当時の名は城井善助信房で、寛文十年に彼が発信した書状に、
やはり、「紀井弥三郎は馬ケ岳にて相果てる。拙者五歳の時、父は四十余歳で病死。先祖帰名・海名(戒名)を知りたし。」とある。

原典は、現・福岡県みやこ町の城井旧遺の進家から、みやこ町歴史博物館へ移譲され保存されている。

(家内の叔母がみやこ町の進家に嫁いでいるが、その一族かもしれない。家内の妹は進家の娘と同級生である。)



信房は朝房の息子の朝末の子供で、朝末は宇都宮家復興の働きかけを行い、家康から「大阪の陣に参加したら話を聞いてやる」と言われるも、病で動けなくて夢敵わず=父は病死=となっている。

馬ヶ岳城だとすると、中津の合元寺で従者達が多数殺されたという話と矛盾するが、合元寺の事件は黒田家譜にも書いてはないし、話がおもしろすぎで、江戸時代の作話らしい。

合元寺の壁は血で赤くなっているとの説







馬ケ岳で謀殺されたとすると、その時の状況をも少詳しくし書いた文書が欲しいものだ。
馬ケ岳山頂

清田 進 さんの 説 (2024.1.4)

城井鎮房忙殺は豊前馬カ岳城で、と云う話
『陰徳太平記』〜城井鎮房降参付生害事〜は、城井鎮房(一次資料・本人発行書状、秀吉、黒田孝高、加藤清正発行文書等で、鎮房及び一族について宇都宮という表記は皆無)暗殺現場を馬ヶ岳城としています。
鎮房曾孫・信房が菩提寺天徳寺(福岡県築上郡築上町本庄)にあてた書状「寛文十年1670天徳寺宛庚戌・紀井善助信房書状写」には、「城井弥三郎[鎮房]、馬が岳にて相果」とあります。城井側史料も、また、鎮房謀殺は、馬ヶ岳城でのこととします。
鎮房と一族を孝高・長政が共謀して暗殺した天正16年4月には、中津築城が遅れた状態にあり、豊前入国当初、長政が入城した馬ヶ岳城を長政と孝高は、暗殺の舞台に選んだと考えられます。
鎮房曾孫、信房は、熊本で善助という名で牢人に身をやつしているところを、旧臣に探しだされました。信房の大伯母が嫁ぐ彦山座主の親戚筋にあたる日野家を介して、飛鳥井大納言の仲介で、越前藩松平家へ仕官。信房子・藤一郎が元禄三年1690五十人扶持を受けます。のち正徳二年1712には五百石に加増され家名をつないでいました。
鎮房謀殺の現場に会したとされる黒田一成が著した『黒田長政記』(続群書類従23下)は、鎮房・朝房殺害について詳細を延べます。一成は、孝高有岡幽閉時の孝高付門番であり、村重家臣・加藤徳重次男・玉松です。
如水様も御上使として、肥後表へ御出陣なされ。城井子弥三郎[朝房]を、如水様召連れられ、肥後表へ御座なされ候。御留守に城井鎮房御礼に罷出て候ハ、御成敗なさるべく候間、其御註文次第に、弥三郎も御打果しなすべくの由、如水様と相談遊ばされ為し置き。
朝房を孝高が、一揆鎮圧を名目に肥後へ同道し、その留守に豊前では鎮房を誘いだして誅する。鎮房謀殺の結果が肥後にとどけば、朝房もまた斬る、と、孝高と長政のあいだで周到な打ち合わせがおこなわれたうえでの凶行でした。
豊臣秀長が天正十五年十一月十一日付で、孝高とわけて、豊前北半国を領知した森吉成に対して、肥後一揆が伝播し、猖獗した豊前での騒乱について、「一揆言語道断所行黒官兵仕やう悪二よつて」(『吉川』709)と、その原因を孝高の失政にあると断じています。孝高・長政父子は、同十六年五月に肥後での失政を咎められて、賜死を言い渡された佐々成政と同様の状況に追い込まれていました。
なお、秀吉九州下向前年天正十四年、立花統虎・立花、高橋鑑種・岩屋、高橋統増・宝満各城を 島津忠長・秋月種実らが囲んだ際、城井鎮房は朝房を島津方に参陣させています。朝房を歓迎する宴を開いたと、島津義弘家老・上井覚軒は、その日記『覚軒日記』に書き留めています。 翌年、秀吉本軍が下向し、秋月種実が降伏すると、鎮房は、ようやく秀吉に帰参。種実とともに肥後・薩摩と南下する、その先鋒を命じられます。 ただし、九州を東回りで豊後・日向と侵攻した秀長軍への対応で、島津方主力の義弘軍が豊後方面に展開したため、秀吉本軍南下に際しては、ほとんど、戦闘らしいものはなくなく停戦をむかえます。
古武士の印象で伝えられる鎮房ですが、史実上では卑怯な立ち回りが確認できます。




0 件のコメント:

コメントを投稿