2017年9月27日水曜日

明治維新の裏舞台:南北朝の入れ替え

明治天皇は、江戸時代最後の天皇である孝明天皇の子ではなく、孝明天皇が邪魔になったために、岩倉や長州藩によって毒殺され、長州の田布施(たぶせ)、現在の山口県熊毛郡出身の大室寅之祐が明治天皇になったという、孝明天皇暗殺説、明治天皇すり替え説は、以前から存在していました。

孝明天皇は、40歳くらいのとき、疱瘡にかかり、その年齢で疱瘡にかかるとたいへんな病状になるのですが、その後幸いに病状は快方に向かっていたと言われていました。

天皇暗殺説

その1) 病気が良くなると、孝明天皇は京都郊外にある女の家に出かけられ、それを見越して薩長はあらかじめ暗殺に都合が良いよう、女の家の場所・作りを整えていました。
孝明天皇が厠に立ったとき、そこで待ち伏せしていた伊藤博文が床下から天皇の尻に刀を刺し殺害し、遺体はきれいに洗われ、孝明天皇は疱瘡で死んだことにされました。
その2)岩倉具視の姉が宮中に仕えており、孝明天皇の身の回りのお世話をしていました。天皇が書類をかくとき筆先をなめる癖があったので、墨のなかに毒薬をいれて殺害し、病死として処理されました。
         
        天皇すり替え説

孝明天皇には、睦仁親王(むつひとしんのう)という息子がいたのですが、彼もまた殺害されました。そして、長州によって大室寅之祐が睦仁親王と置き換えられ、明治天皇となりました。

大室寅之祐が明治天皇に据えられたのは、彼が後醍醐天皇の末裔で、南朝を継ぐ者だったからでした。孝明天皇までは、天皇は北朝の血筋であったのが、明治天皇が大室寅之祐に置き換えられたことで、天皇家は南朝の血筋に移ることになりました。

明治天皇が替え玉であることは、状況証拠からも判断できます。孝明天皇の息子の睦仁親王は、体が虚弱で精神的にも弱かったのに、明治天皇は体格が立派で馬に乗るのが大好きだったというので、睦仁親王とは、特徴が全く一致しません。


南北朝の争いで南朝が負けた際、光良親皇という南朝の王権を持つ者を長州がかくまい、その血筋は代々受け継がれ、そしてその末裔である大室寅之祐が、明治天皇に即位することになりました。

徳川家康は、正統である南朝を復活させることを狙っていたが、しかし、寿命がつきこれを断念。南朝の復活は、ひそかに水戸藩に託されました。徳川御三家の中でも水戸は特殊な使命を帯びた家だったのです。

幕末はご存知の通り、南朝を正統とする水戸学の尊皇攘夷から始まっており、この思想を持つ人たちにとっては、南朝の方が正統となります。幕末、徳川最後の将軍・徳川慶喜は、水戸藩の出身。彼は明治維新の黒幕といえる存在でした。

それで幕末、長州の田布施という所にいた大室寅之祐という少年、この人は南朝の後醍醐天皇の玄孫、光良親王の子孫で、つまり南朝の子孫となるので、睦仁親王とこの大室寅之祐がすり替えられました。



もちろん、薩長・岩倉らの手によってです。

維新回天を成就するには、自分たちの意見を取り入れてくれる天皇が必要でしたので、吉田松陰の命を受けた伊藤俊輔が、守役をしていた大室寅之祐を替え玉としたのです。

吉田松陰は水戸学に啓発され、偽王朝の孝明天皇を排除して正統な血筋の大室寅之祐を皇位につけ、南朝の皇統を復活させようと考えていたのでした。

はたして天皇となる人のすり替えが可能なのか?

以下は、その証拠と言われているものです。

① 睦仁親王は神経がこまやかで虚弱体質、禁門の変では恐怖のあまり失神しています。

ですが、即位後の明治天皇は身長180センチ、90キロという堂々とした体格、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしています。

② 睦仁親王が即位前に乗馬をした記録はありません。

天皇は鳳凰を飾った輿、 「鳳輦」(ほうれん) に乗ります。

乗馬は必要ないばかりか、公家は武士のたしなみである乗馬を下品だと見下していました。

ですが、明治天皇は鳥羽伏見の戦いで、馬上で閲兵しています。

③ 睦仁親王の生母・中山慶子の墓所に、明治天皇、皇太后、皇太子は一回も行幸、行啓していません。

④ 明治天皇の ”皇太后” は父:孝明天皇の妻であるはず。
なのに、明治天皇は自分の妻である一条美子を皇后ではなく ”皇太后” と呼ばせていました。

一条美子は本物の睦仁親王に嫁いでおり、途中からすり替わった明治天皇は、睦仁親王に遠慮したのではないかと言われています。

⑤ 明治天皇は左利きでした。昔は左利きは良くないとされ、高貴な生まれの人は必ず矯正されていました。

ましてや将来天皇となる人がそのまま・・・ということはありえません。

⑥ 16歳までの睦仁親王と明治天皇の字は明らかに違っていました。

睦仁親王はヘタクソで明治天皇は達筆だった、と言う人もいますが、私が両方の字を見た感想は、睦仁親王は書道の基本を押さえた字を書き、明治天皇はそうではない字でした。

明治天皇は自分の書いた字を人に見せたくなかったようです。

自信がなかったためかどうかはわかりません。

短歌を詠むとき、まず紙切れに歌を書いて、誰か字の上手な女官に命じてきれいな紙に書かせたあとは、自分の原稿は破って捨てていました。

⑦ 明治天皇は幼少期の写真とされているものと、まったくの別人です。

睦仁親王は天然痘の予防接種をしたので疱瘡にはかからないはずが、明治天皇の口の周りにはアバタがあり、それを隠すために口ヒゲをはやしていました。

⑧ 明治天皇の側近だった田中光顕が 「明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時に即位したとなっているが、実はその睦仁親王は暗殺されて、入れ替わったのが大室寅之祐である」 と生前語っています。

田中光顕
⑨ 明治の新政府が出来て間もなく、まだ少年である天皇がわがままで元勲たちのいうことを聞かなかった時、西郷隆盛が 「そんなことではまた昔の身分に返しますぞ」 と叱り、天皇はたちまち大人しくなったと言います。

⑩ 明治7年、西郷従道は 「台湾出兵延期」 という天皇の命令を無視して出兵するし、天皇の前では誰もが起立するのに、守役だった伊藤博文は椅子に座ったままで、剣も腰に下げたままでした。

⑪ 明治35年、熊本にて軍の演習後の宴会出席を天皇が断ったため、山県有朋が 「士気にかかわる!」 と天皇に突っかかり、言い合いになります。

結局、天皇の方が折れて出席しているし、明治37年には大山巌も天皇の命令を無視しています。

⑫ 明治天皇みずからの意思で、十五もの南朝関係の神社 (楠木正成の湊川神社、新田義貞の藤島神社等) を次々に創建したり、贈位したりして、明治天皇が大室寅之祐でなければ、敵の南朝を称えていることになります。

後醍醐天皇がいた吉野に建てた ”吉野神宮” の御由緒には 「近代日本の繁栄の基は明治維新にあり、明治維新の根源は後醍醐天皇の建武の中興と吉野朝の歴史にありといわれます」 と書かれていて、北朝である明治天皇に対して不敬ではないか、と思われる内容です。

⑬ 明治44年、南朝・北朝のどちらが正統か、帝国議会で議論されました。

そこで驚くことに、天皇家は北朝であるにもかかわらず、南朝が正統と決定され、明治天皇もそれを承認しました。

⑭ 皇居には楠木正成の巨大な像があります。

まだ南朝が正統と帝国議会で承認される前、明治29年、寄付により設置されています。



敵将の銅像を、何故、堂々と寄付したのか? と疑問がわきますが、すり替えを知っていたと思えば納得もいきます。

実際に皇居に行って、北朝の天皇が中にいらっしゃると思って見ると・・・なんとも奇妙な感じがします。

すり替えられている、という根拠になっているものをいくつか挙げてみましたが、他にもまだあります。

このようにして、皇統はひそかに北朝から南朝にすり替えられたのでした。

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