2017年9月13日水曜日

大宰府を囲む防衛線「大宰府羅城」


そのむかし、大宰府は「とお朝廷みかど」と呼ばれた朝廷の出先機関のことでした。

 さらに、この大宰府は風水都市でもあります。

地図で確認すると、東西南北、地の理に叶った都市であったことがわかります。風水では東西南北の方位のそれぞれに、色、季節、動物(架空を含む)、守護神、自然を配置します。下記のカッコは、それを大宰府にあてはめたものです。

東:
青、春、龍、持国天、川(御笠川)

西:
白、秋、虎、広目天、道(西海道)

南:
朱、夏、雀、増長天、平野と沼沢(二日市温泉)

北:
玄、冬、亀、毘沙門天、山(大野山、四王寺山、北部の水城)

 ちなみに、太陽は東から昇るので、人生における勢いのある時を東にかけて「青」「春」=「青春時代」と呼ぶのも風水の考え。會津(会津)の白虎隊は西方の守備隊。西は「白」「虎」を示すことから名づけられました。
 大宰府政庁の縮図を見ると、大宰府政庁は碁盤の目に区切られた条坊制の都市として描かれており、条坊の中心線(都大路ともいうべきか)に添って南に下がると、榎社(寺)があります。榎社とは、京の都から左遷された菅原道真の館があった場所。「府の南館」とも呼ばれたが、現在の西鉄二日市駅の北側にある榎社がそれになります。
さらに南に下れば、条坊の端に湯町こと現在の二日市温泉があり、万葉歌人の大伴旅人が赴任地の大宰府で妻を亡くし、その悲しみを歌に詠んだ場所でもあります。
この都市部の風水の範囲を超える長大な防衛ラインを、阿部義平教授(故人:国立民俗博物館)が、大宰府羅城として、1991年に提唱されていました。

桜開花のころの水城







最近この仮説の物証となる土塁が南側でも発見され、調査されました。
新発見 大宰府を守る土塁
大宰府防衛線「大宰府羅城」

1.発見された土塁(どるい) 

筑紫駅西口土地区画整理事業に伴い実施して いる前畑遺跡の発掘調査では、弥生時代前期~ 中期の集落、古墳時代後期の集落と古墳、窯跡、 中世の館跡、近世墓地などが発見され、長期間 にわたって人々の営みの痕跡が発見されていま す。 今回の丘陵部での調査では、7世紀に造られ たと考えられる長さ500メートル規模の土塁 が、尾根線上で発見されました。




2.土塁の構造                    

土塁は大きく上下2層から成り、上層の外に  土壌を被せた構造です。上層は種類の異なる土 を層状に積み重ねた「版築」(はんちく)と呼 ばれる工法で造られています。このような工法 は特別史跡の水城跡(みずきあと)や大野城跡 (おおのじょうあと)の土塁の土壌にも類似し ており、7世紀後半に相次いで築造された古代 遺跡に共通した要素と言えます。







ただ、すでに知られている水城や小水城、と うれぎ土塁、関屋(せきや)土塁といった7世 紀の土塁は、丘陵と丘陵の間の谷を繋ぎ、敵の 侵入を遮断する目的で作られた城壁としての機 能が想定されています。 今回、前畑遺跡で発見された土塁は、宝満川 から特別史跡基肄城跡(きいじょうあと)に至 るライン上に構築されたもので、丘陵尾根上に 長く緩やかに構築された、中国の万里の長城の ような土塁となっています。 また、土塁の東側は切り立った斜面になって おり、西側はテラス状の平坦面を形成していま す。これは東側から攻めてくる敵を想定した構 造で、守るべき場所、つまり大宰府を防御する 意図を持って築かれたと考えられます。

3, 前畑遺跡で発見された土塁の歴史的な背景

このように都市を防御するために城壁(土塁や 石塁)を巡らす方法は、古代の東アジアで中国を 中心として発達し、羅城(らじょう)と呼ばれて いました。 日本に最も近い羅城の類例は、韓国で発見され た古代百済の首都・泗沘(サビ)を守る扶余羅城 (プヨナソン、全長8.4Km)があります。扶余羅 城は、北と東の谷や丘陵上に土塁を構築し、西を 流れる錦江(白馬江)を取り込んで羅城としてい ます。自然の濠ともいうべき、河川をうまく利用 して羅城を築いていることになります。 日本書紀によれば、660年に滅んだ百済の遺 臣達によって、この筑紫の地に664年に水城、 665年には大野城と基肄城が築造されており、脊 振山系や宝満山系などの山並みの自然地形を取り 込んだ形で大宰府にも羅城があったのではと長く 議論されてきました。前畑遺跡の土塁は丘陵尾根 上で発見され、丘陵沿いに北へ下ると宝満川へ至 ります。このことから、当初の大宰府の外郭線は、 宝満川を取り込んでいた可能性も想定され、古代 の東アジア最大となる全長約51Kmにおよぶ大 宰府羅城が存在した可能性がにわかに高まってき ました。

4.土塁の評価

前畑遺跡の土塁は、文献史料に記載はないものの、古代大宰府を防衛する意図を持ったものであ ると考えられ、百済の城域思想を系譜にもつ大宰府都城(とじょう)の外郭線(がいかくせん)に 関わる土塁であると推測され、東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類を みない稀有な遺跡です。 このような巨大な都市が建設されるのを契機に、「日本」の国号や「天皇」といった用語が史料 に現れ、「律令(りつりょう)」という法治国家の制度が整備され、現在の日本の原形としての古代 国家が成立しました。前畑遺跡から見る景色は日本のあけぼのを感じる特別な眺望といえるのでは ないでしょうか。

さらに古代山城や、神籠石の分布範囲をしらべれば、防衛線は、さらにひろまります。




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