2018年7月25日水曜日

百武源吾

百武 源吾1882年明治15年)1月28日 - 1976年昭和51年)1月15日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍大将佐賀県出身。

兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である。

第7代九州帝国大学総長

百武源吾は、昭和20年3月から10月まで九大総長をつとた異例の海軍大将である。

この年4月に入学したわたしは、2回ほど総長の訓話を聞いた記憶がある。国民服姿の単身赴任であった。

軍隊と異なり大学では、総長が研究室を視察して回っても、研究員は知らん顔をしている。そこで教職員用の瀬戸物バッジを作らせ、挙手の礼を実行させようとした。

また、学生は将校の候補生だから、軍刀の用意をする必要があると、講話された。これを父親に話したら、早速一刀を購入してきたので驚いた。

西部軍では、協定を破って医学研究者の召集を行っていたので、軍人総長は西部軍と折衝して復学させたという。

それ以外は、短期間で敗戦となり、研究費や研究資材の増加などの貢献をみることはなかった。

昭和20年4月から、夏休みなしで講義はつづけられたが、8月15日の敗戦後2ケ月くらいは休講状態で、退任の挨拶もなかった。

百武大将は、海兵30期首席卒だったが、開戦反対派だったため「恐米病者」とみられ、昭和13年から予備役に編入されていたという。

前の荒川総長がクリスチャンで、戦争非協力者の印象が強かっため、任期満了にあたり、本土決戦下の大学で、異例の軍人総長がえらばれたようだ。

しかし退任後は、大学総長の経歴を一切消去して、郷里の佐賀で、農業生活に専念し、93歳の長寿を全うされた。


百武源吾(ひゃくたけ・げんご)海軍大将の経歴:
佐賀・海兵三〇首席・海大一一・海軍大学校兵学教官・大佐・装甲巡洋艦「春日」艦長・教育局第一課長・フランス出張・国連海軍代表・少将・海軍大学校教頭・軍令部第一班長・第五戦隊司令官・中将・軍令部次長・海軍大学校校長・練習艦隊司令官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・艦政本部長・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・高等技術会議議長・予備役
・九州帝国大学総長・正三位・勲一等・功五級
佐藤三郎(海軍中将)の義兄にあたる

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