2018年8月1日水曜日

九州の吉備真備ゆかりの地(改訂版)

吉備真備は、備中国下道郡(現在の岡山県倉敷市真備町)出身。 
今年の西日本豪雨で、広く水没した町である。九州ともゆかりのある人物なので、まとめてみた。
霊亀2年(716年遣唐留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂玄昉らと共に入唐した。帰路では種子島に漂着するが、天平7年(735年)に多くの典籍や唐の新技術を携えて帰朝した。
帰朝後は聖武天皇光明皇后の寵愛を得て、天平7年(735年)中に従八位下から一挙に10階昇進、橘諸兄右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉とともに重用され、真備は右衛士督を兼ねた。
天平12年(740年)には、真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣大宰府で反乱を起こす(藤原広嗣の乱)。
(藤原広嗣は不比等の孫で、政府の中枢にいた父「藤原宇合(ふじわらのうまかい)」をはじめ、おじ3人を天然痘で亡くしたため、政府の実権が「橘諸兄(たちばなのもろえ)」に移ると、広嗣は大宰府の第二の次官である太宰少弐(だざいしょうに)に左遷されていた。



740年(天平一二年)、「(橘諸兄の側近である)吉備真備(きびのまきび)、僧玄昉(げんぼう)を除くべし」と上表し、広嗣は北九州で反乱を起した。しかし、すぐに破れ肥前で斬刑に処せられた。




大宰府からの命令で薩摩から駆けつけた隼人の部隊が、板櫃川の決戦で、朝廷派遣軍のなかの隼人部隊から、広嗣が逆臣としらされて、撤退したためであった。





















広嗣の死後、全国的に天災や悪疫が流行し、広嗣のたたりだとうわさされた。



孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750年)には、藤原仲麻呂が専権し、吉備真備を筑前守、次いで肥前守に左遷した。玄昉も大宰府観世音寺の法要の途中で、落雷にあい急死したと言われている。
吉備真備は藤原広嗣の霊を慰めるために、752年(天平勝宝四年)、唐津市浜玉町の地に「無怨寺(むおんじ)」を建立した。これは明治になり、大村神社になった。


浜崎町がいまの浜玉町で、その東南に大村神社がある。
その後天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752年)に再度入唐、阿倍仲麻呂と再会する。その翌年の天平勝宝5年(753年)に、鑑真と同じく屋久島へ漂着、さらに紀州太地に漂着後、無事に帰朝する。
また天平勝宝6年(754年)には正四位下大宰大弐に叙任されて九州に下向する。
天平勝宝8歳(756年)に新羅に対する防衛のため筑前国の高祖山に怡土城を築き、天平宝字2年(758年)に大宰府で唐での安禄山の乱に備えるようを受けた。
(755年に安禄山(あんろくさん)の乱が起きて政情不安に陥り、また朝鮮半島では新羅(しらぎ)が日本の国使との会見を拒否するなど、対外的な緊張が高まり、遣唐使であった吉備真備が中国の知見があるため怡土城を築くことになったのだ。
筑紫では、大野城・基肄城につぐ外敵防御のための古城で、尾根づたいに五か所の望楼を配し、西麓の平地に面した線は、土塁、石塁で固め、その間に城門、水門などが設けられている。土塁にはニガリをまじえて強度を増やした。


城の詳細図




天平宝字8年(764年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。
同年に発生した藤原仲麻呂の乱では、従三位に昇叙して、中衛大将として追討軍を指揮して、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、翌天平神護元年(765年)には勲二等を授けられた。
翌天平神護2年(766年)、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、同年の藤原真楯薨逝に伴い大納言に、次いで従二位右大臣に昇進して、左大臣藤原永手とともに政治を執った。
これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。
光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の職は慰留した。
宝亀2年(771年)に再び辞職を願い出て許された。、宝亀6年(775年)10月2日薨去享年83。最終官位は正二位前右大臣。

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