2018年8月5日日曜日

島尾敏夫(特攻隊長の恋)

島尾敏夫

1917年4月18日神奈川県横浜市戸部町に輸出絹織物商を営む父島尾四郎、母・トシとの間に長男として生まれた。両親、妹二人、弟三人の6人兄弟であった。

学生時代


1936年4月、長崎高等商業学校に入学した。中桐雅夫編集の『LUNA』同人となり、以降同誌に幾つもの詩を発表した。1938年、長崎高商2年の頃、矢山哲治らと同人誌『十四世紀』を創刊するが、島尾が載せた小説と他同人二名の小説及び詩の内容が風俗壊乱と反戦思想の嫌疑をかけられ発行と同時に内務省より発売禁止の処分を受けた。
1939年3月に長崎高等商業学校を卒業するが、引き続き4月から同校海外貿易科に籍を置く。
この夏、毎日新聞社主催のフィリピン派遣学生旅行団の一員としてルソン島台湾を旅行した。その体験が後に『呂宋紀行』として結実する。10月からは福岡の同人雑誌『こをろ』に加わる。

『こをろ』は福岡市で刊行された文藝同人誌で、1939年から1943年末にかけて、14号まで発行された。同人には島尾敏雄のほか矢山哲治真鍋呉夫阿川弘之那珂太郎小島直記一丸章らがおり、同人は長崎高商福岡高校の二つの系統からなっていた。
島尾の言によれば、福岡高校出身者はゲオルゲカロッサリルケ等ドイツのそうした系統や当時の風潮の「日本浪曼派」的な傾きが強く、商業(福岡商業)、高商出身者はそれに馴染まないものが多かったという。
そうした性質の異なる二派の青年たちからなる『こをろ』は度々分裂の危機に見舞われた。『こをろ』の中心人物で、25の若さで自殺とも事故ともつかぬ列車事故により夭折した矢山哲治の死に際しては、同人の多くが既に出征していたこともあって島尾が最も近くに居り、衝撃を受けた。『こをろ』の矢山追悼号へは「矢山哲治の死」を掲載し、葬式では島尾が弔辞を読んだ。
この時期の九州同人誌の流れ

矢山哲治との関係についてその当初の印象を「このやうにドイツ風な又日本浪漫派風な雰囲気に誕生していた矢山とさういふ所に無縁であった私」としていたが、矢山の死後の1943年後半を述懐して、島尾は日本浪曼派の代表的批評家である保田與重郎について「旺ニ彼ノ書ク物ヲ読ンデソレニ傾イタ」「ムサボルヤウニ読ンデ甚ダシク心ヒカレタ」と書いている。
矢山哲治
『こをろ』へは「呂宋紀行」「暖かい冬の夜に」「浜辺路」「断片一章」などを発表している。
1940年九州帝国大学法文学部経済科に入学。翌41年に九州帝大法文学部文科を受験しなおして再入学し、東洋史を専攻する。そのため『水滸伝』のほか『浮生六記』などの小説や『李太白詩選』、また研究資料として元史にも親しんだ。
在学中、同じ研究室の一級下に庄野潤三がおり親交を結ぶ。佐藤春夫木山捷平らを共通して好んだ。庄野にはこの頃を描いた日記体の小説「前途」がある。
1943年、8月に卒業論文『元代回鶻人の研究一節』を書き上げ九州帝国大学を半年繰り上げで卒業し海軍予備学生を志願した。また、私家版「幼年期」を70冊限定で発行。この頃、庄野を介して詩人の伊東静雄との通交がはじまる。その関係は戦後のある時期まで続き、伊東の圏内で林富士馬庄野潤三三島由紀夫らと同人誌『光耀』を創刊することとなった。 

特攻隊体験



呑之浦にある島尾敏雄文学碑
1943年の9月末、九州帝国大学を半年繰り上げで卒業したのち、陸軍での内務班生活を嫌って海軍予備学生を志願する。はじめ飛行科を志願し、予備学生試験の当日の判定では航空適性であったが一般兵科に採用され、旅順の教育部へ入った。
基礎教育期間を終了したあとの術科学校の希望書に暗号、一般通信に加え、惰弱と思われるのが嫌で第三希望に魚雷艇部門を記入したところ採用され、第一期魚雷艇学生として1944年2月から横須賀市田浦の海軍水雷学校で訓練を受けた。当時魚雷艇部門は創設されたばかりであり、また術科の専門部門では一番の危険配置とされていた。
1944年4月から長崎県川棚町の臨時訓練所で水雷学校特修学生として過ごすうち、特攻の志願が認められた。猶予期間として一日の休暇が与えられ、就寝前に志願の可否を紙に書いて提出するかたちで募られたという。
1944年10月には第十八震洋特攻隊指揮官として、180名ほどの部隊を率いて加計呂麻島呑之浦へ赴いた。その地で更に訓練を重ね、出撃命令を待つ日が長く続いた。


その極限の状況下で、島の娘、大平ミホと恋愛する。
この恋愛体験を昭和二十四年九月に、「出孤島記」として、「文芸」に発表、第一回戦後文芸賞を受賞した。「出孤島記」には、大平ミホはNとして登場する。
島尾敏夫と大平ミホ

戦後の昭和二十一年三月十日、島尾は大平ミホと結婚する。神戸市立外事専門学校(現神戸市外国語大学)助教授を経て、昭和二十七年東京に移住、作家活動に移る。
だが、島尾の女性問題で妻ミホは心の病に冒され、島尾と断絶状態になる。
昭和三十年、妻ミホの病気療養のため、奄美大島名瀬市に移住。カトリックの洗礼を受けた。昭和三十二年、島尾は鹿児島県職員となり、県立図書館奄美分館に勤務しながら、作家活動を行う。
島尾敏雄はその後、文学者として、次々に作品を発表し、次のような多数の文学賞を受賞。
妻ミホとの断絶の危機を描いた作品「死の棘」で芸術選奨受賞(昭和三十六年)、南日本文化賞(昭和三十九年)、「日の移ろい」で谷崎潤一郎賞(昭和五十二年)。
同じく「死の棘」で、読売文学賞(昭和五十三年)、日本文学大賞(昭和五十三年)、日本芸術院賞(昭和五十六年)。
「湾内の入り江で」で川端康成文学賞(昭和五十八年)、「魚雷艇学生」で野間文芸賞(昭和六十年)。

昭和六十一年十一月九日、鹿児島市宇宿町の自宅で書籍を整理中、島尾敏雄は脳内出血で倒れる。鹿児島市立病院に搬送されるが意識の戻らぬまま、十一月十二日、同病院で死去した。享年六十九歳。葬儀はカトリック教会で営まれた。

なお、島尾の妻、島尾ミホ(平成十九年死去・八十七歳)も作家になり、昭和五十年に、「海辺の生と死」で女流作家に贈られる第十五回田村俊子賞を受賞している。
さて、「出孤島記」(島尾敏雄・新潮社)の内容を、もう少し掘り下げて見よう。
島尾敏雄は終戦に至る特攻部隊、第十八震洋隊での体験と大平ミホとの恋愛を、昭和二十四年九月に、「出孤島記」として、「文芸」に発表、第一回戦後文芸賞を受賞した。
後に同じ体験を素材にし、この作品の続きの部分を書き加えて、「出発は遂に訪れず」も発表している。ここでは大平ミホは「トエ」として登場している。

「島尾敏雄日記」(島尾敏雄・新潮社)によると、島尾は徴兵検査の結果、第三乙種合格だったので、果たして陸軍の内務班生活に耐えられるか不安だった。島尾は当時軽いうつ症で、なるべく少人数で軍隊生活を送りたいと思った。それで、海軍の飛行学生を希望した。パイロットなら多数の人間と軍隊生活を共にすることはないからだ。

だが、希望に反して、海軍予備学生合格後、水雷学校と魚雷艇訓練所で訓練を受けた後に、第十八震洋隊という、百八十余名の隊員と、五十隻の震洋艇の特攻兵器部隊の指揮官にさせられてしまった。島尾にとっては思いもよらない結果だった。
震洋艇は敵の米軍から「スイサイド・ボート」(自殺艇)と呼ばれた緑色小型艇の特攻兵器だった。長さ五メートル、幅一メートルのベニヤ板でできた高速ボートだ。
一人乗りで、敵艦船に突っ込んでいき、衝突させる。その瞬間、頭部に装着してある火薬に電路が通じて爆発する仕組みになっていた。
その威力は、二隻の特攻で、一隻の輸送船が撃沈できる程度のものだった。震洋艇の乗員は目標の敵艦船の百メートル手前で、進路を絶好の射角に保ったまま舵を固定し、海中に身を投じてもよいことにはなっていた。だが、そのようなことが現実にできそうもなかったの。だから、乗員たちは皆、成功するためには、最後まで、舵を取りながら敵艦船に突っ込むほかはないように思っていた。
1945年8月13日の夕方に特攻戦が発動され出撃命令を受けたが、敵艦隊が姿を見せず、発進の号令を受け取らぬまま14日の朝を迎えた。震洋での特攻戦は夜襲を原則としていたため日中の出撃はありえず機会は翌晩まで延期されることとなった。
その日の正午に大島防備隊司令部から全指揮官参集の命令を受け、翌15日に即時待機状態のまま敗戦を知った。 

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