2018年8月9日木曜日

藤田信雄:アメリカ本土を爆撃した唯一の日本人

日米戦争は、海軍のハワイ真珠湾攻撃からはじまったが、アメリカ本土への攻撃は、風船爆弾くらいしか知られていない。昨夜のテレビで、アメリカ本土を爆撃した唯一の日本人が紹介された。

藤田 信雄(ふじた のぶお)は、日本海軍軍人。最終階級は飛行兵曹長(終戦による特進後の最終階級は特務士官たる中尉)。
藤田信雄中尉


海軍の伊号第二五潜水艦(伊25)から零式小型水上機を飛ばし、史上唯一アメリカ合衆国本土に対して航空機による爆撃を実施するという、後にルックアウト空襲とよばれる爆撃を敢行した軍人である。彼の任務は、太平洋戦争における太平洋戦域のアメリカ海軍の資源を奪い去るため、焼夷弾を使用してオレゴン州ブルッキングズ市に近い太平洋岸北西部に大規模な山火事を発生させるというものだった。この戦略はのちに日本の風船爆弾作戦にも採用された。

1942年4月21日軍令部に呼び出された藤田は、その場で首脳部より単独によるオレゴン山中への空爆命令を拝する。藤田の操縦の腕を買われたものだった
9月9日水曜日の午前6時、伊25はカリフォルニア州とオレゴン州の境界線の西側に浮上した。藤田と奥田兵曹が搭乗するE14Yは2個の焼夷弾(合計155キログラム)を積み飛び立った。藤田の投下した焼夷弾のうち1個はオレゴン州のエミリー山脈ホイーラーリッジに落ちている。もう片方の爆弾の落下地点は不明である。ホイーラーリッジに落ちた焼夷弾によりブルッキングズの東約15キロの地点でぼやが発生したが、アメリカ林野部によってすぐに鎮火され、結果として木が一本燃えただけであった。
3週間後の9月29日、藤田は2回目の爆撃を行うため出撃する。ケープブランコ灯台を目印にし、東への90分後のフライトの間に藤田は爆弾を投下し炎を見たと報告したが、爆撃はアメリカ側には認知されることなく終わった。 
1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、アメリカ合衆国本土に対する史上唯一の航空機による爆撃である。

藤田はその後も偵察を主な任務として日本海軍のパイロットを続け、海軍特務少尉に昇進した。1943年(昭和18年)9月1日より鹿島海軍航空隊に着任、航空隊付教官となった。

藤田は1945年(昭和20年)2月16日に、速度性能と武装で決定的に不利であった零式観測機でグラマンF6Fを迎撃し、格闘性能を活かして1機を未確認撃墜(藤田は撃破を確認、近隣の香取空がF6Fの墜落を確認)するという戦果を上げた。
 終戦直前に特別攻撃隊に志願し第二河和海軍航空隊へ異動、教え子だけでは無く、藤田自身が特攻隊として突入することを想定して自身も訓練を行ったが、まもなく終戦。
終戦後、藤田は特務士官たる海軍中尉に昇進した。

終戦後、藤田は地元の茨城県土浦市に戻り、工場勤めなどをしていた。

だが1962年(昭和37年)5月20日、政府首脳より都内の料亭に呼び出され、池田勇人首相と大平正芳内閣官房長官に面会し、その場でアメリカ政府が藤田を探していることを告げられ、アメリカへ行けと命じられる。しかも日米関係への影響を心配した日本政府は、この渡米を一切関知しないとさえ告げられた
藤田は戦犯として裁かれるのではないかと考え、自決用に400年間自宅に代々伝わる日本刀をしのばせ渡米したが、ブルッキングズ市はかつての敵国の英雄である藤田をフェスティバルの主賓として招待したのだった。
大歓迎をうけた藤田と家族

アメリカで大歓迎を受けた藤田は自らの不明を恥じ、持っていた刀を友情の印としてブルッキングズ市に贈った。
日本刀を寄贈


アメリカでの歓迎ぶりに感銘を受け、藤田は1985年(昭和60年)にブルッキングスの3人の女子学生を日本に招待した。
3人の女子学生を招待

ブルッキングズ・ハーバー高校の生徒が日本に滞在している際、藤田はロナルド・レーガン大統領の補佐官より「貴公の親切と寛大さの賛美を」との献辞と星条旗を受け取った。




なお、藤田はブルッキングスの女子学生を招聘するにあたって、衣類は勤務先の作業服のみ、娯楽は毎月2〜3冊の書籍のみと言うストイックな生活のすえに資金をやりくりしている。
 その後、藤田は1990年(平成2年)、1992年(平成4年)、1995年(平成7年)にもブルッキングズを訪れた。1992年にはかつて空爆した地域に平和を象徴して植林を行った。

1995年の訪問時には藤田が贈った日本刀はブルッキングズ市庁舎から新しい図書館に設けられた「藤田コーナー」の陳列ケースの中に移動された。

藤田自身は84歳という高齢にもかかわらず市長ら友人3人を乗せセスナ機を操縦。かつて自分が飛行したものと同じ空路をたどってみせた。 

藤田は1997年(平成9年)9月30日に85歳で死去した。死去の数日前にブルッキングズ市の名誉市民となっており、市長が死去の当日に来日して本人へ渡すつもりであったが、死去により遺族へ授与された。
彼の娘である浅倉順子(よりこ)によって1998年(平成10年)10月に藤田の遺灰の一部が埋められた空爆地域には、現在「アメリカ大陸が唯一日本機に空爆された地点」と書かれた看板が立てられている。
娘の浅倉順子さん


藤田のアメリカ本土攻撃は戦後長い間広く知られることはなかったが、1995年12月29日放送の『たけし・さんま世紀末特別番組!! 世界超偉人5000人伝説』(日本テレビ)に取り上げられ、存命中の藤田もVTRに出演した。今回は、2018年8月9日放送「たけしのアンビリバボー」(TNC)であった。

2012年5月に浅倉順子とその息子の藤田文浩らがブルッキングスを訪問し、現地の図書館や空爆地域を訪れるなど、その後も交流が続いている。

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