2018年8月22日水曜日

征韓論政変

明治維新後の日本新政府は、対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行う。
しかし日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。
明治3年1870年)2月、明治政府は佐田白茅森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の対応に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。
9月には、外務権少丞吉岡弘毅釜山に遣り、明治5年1872年)1月には、対馬旧藩主外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。
朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
当時政権を握った大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出した。
当時外交官として釜山に居た佐田、森山等はこの乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。明治6年(1873年)6月12日、森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。
参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎江藤新平らもこれに賛成した。


中国から帰国した副島種臣は西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴く事を主張した。
二人の議論の末三条実美の説得もあり副島が折れることとなった。

板垣退助も西郷のために尽力し、三条実美の承諾を得て西郷を使節として朝鮮に派遣することを上奏した。
いったんは、同年8月17日に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、やがて帰国する岩倉らの意見を聞くという保留つきであった。
残留組の大隈重信、大木喬任と、すでに5月に帰国していた大久保利通や、7月に帰国していた木戸孝允らの派遣反対派の意見が、公家たちの間にひろまり、三条がゆらぎはじめた。


9月13日に帰国した岩倉使節団岩倉具視らは時期尚早としてこれに猛烈に反対した。

太政大臣三条実美が議長の閣議が10月14日からはじまる。
連日の会議で賛成派のほうに決まりかけた17日に、大久保が辞表を提出する。これにならって、木戸、大隈、大木も辞表を出すので、収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。
賛成派は、岩倉邸をおとずれて、岩倉に膝詰で説得にかかるが、大久保は岩倉を太政大臣代理に押し上げて、彼の意見を天皇に上奏させようと考えた。
この秘策が功を奏して、岩倉が一時的に太政大臣代理となり、23日彼の派遣反対意見が、明治天皇に容れられて、遣韓中止が決定された。
その結果、24日西郷、25日板垣、副島、江頭、後藤らの征韓派は一斉に下野した。
これに連鎖して、近衛局の桐野利秋ら幹部将校290名も辞職した。
これらの事変は、 征韓論政変とよばれている。
しかしその後の歴史を見ると、内政を優先させるのが第一として西郷の朝鮮使節の派遣論に反対した内治派の人々が、その後、明治七(一八七四)年に台湾を武力で征伐して中国と事を構え、さらに翌明治八(一八七五)年には、朝鮮の江華島において朝鮮側と武力衝突を引き起こし、修好条約を締結した。
当然この出兵には、木戸、山縣、勝などが反対して、辞表を提出し政府を去っている。(岩倉は征韓論争の後、刺客に切られて、療養中であった。)
 つまり、西郷の使節派遣に反対し、内政が優先であると主張した非征韓派が、動機は現地での小さな事件からであったが、かなりの国費を使う外征(海外派兵)を行ったのだ。
鹿児島にいた西郷は激昴して「これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」と嘆いた。 この歴史的事実を考えると、征韓論の論争における「外征派 対 内治派」という対立構図といわれたの真実は、西郷を追放するための、ワンマンになってきた大久保利通の欺瞞に満ちたものであったともいえる。
その延長線の先に、西南戦争が見えてくる。

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