2020年10月27日火曜日

坂本竜馬と高杉晋作:いろいろ

 晋作と龍馬の関係は次の3つがよく知られる。

1)晋作が龍馬に漢詩とピストルを贈る。竜馬はこれで命拾いをする。
2)小倉戦争を共に戦う。慶応2年(1866)6月17日未明晋作に依頼された龍馬は、乙丑丸で対岸の旧門司の幕府軍砲台を艦砲射撃し、勝利の援助をする。
3)薩長同盟のため龍馬は晋作らと尽力し、長州藩が政変・禁門の変などにより「薩賊会奸」と呼んだ薩摩と、恨みを越えて同盟を結びそして維新回天の大業に導く。
東行庵にも、その顕彰掲示板がある。別途、海峡沿いには青春交響の塔がある。
二人はともに慶応3年になくなった。(生まれは天保6年と10年)




高杉晋作の名前はいくつあるのだろうか。
諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫(ちょうふ)。
号は初め楠樹、後に東行と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。他に些々などがある。
変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。
東行庵の記念館に花押があった。晋作と春風の文字を複合した書体である。
晋作の祖父が春時、父が春樹だから、「春」が高杉家では続いたが、晋作は子供の名を東一と名付けた。
孫の名前は春太郎にもどったが、これは伊藤博文が潜伏時につかった変名でもある。

東行庵にある晋作の顕彰碑は大きいが、墓は予想していたより小柄な墓であった。
明治42年ごろにできたものだが、一緒に建てられる奇兵隊参謀の福田公明(侠平)の墓が先にできた。完成を待ち望んでいた梅処尼は「旦那のがまだ来ない」と言いながら、ついに墓石をみずに67歳で亡くなったという。彼女の墓も近くに建てられている。




高杉晋作の東行庵に山形有朋の銅像がある。何故だろうと思ってしらべた。
この清水山麓には、もともと奇兵隊陸軍監山縣狂介が新婚生活を営んでいた小さな家があった場所で、それを晋作の愛人うのに譲って東行庵となったそうだ。
東行庵建立寄付者のなかでも、毛利公55円についで、50円組4人のトップに名前を書き、あと井上、山田、伊藤とならんでいる。

竜馬がいろは丸沈没事件のとき、巧な交渉術で和歌山藩からの賠償金要求に成功した話は有名である。相手に国際法をもちだして強硬な態度で臨み、世間に情報をばらまいて世論を味方につけたという。
貴乃花巡業部長は、刑事訴訟と沈黙という方法で、情報社会を湧き立たせて、日馬富士を引退に追い込んだ。医療ホッチギスの写真リークの効果も大きかったようだ。


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