2020年10月30日金曜日

磐井の乱の評価



昨日、継体天皇の時代の歴史番組で、最後の磐井の乱について、討論された。

出演者 4人がすべて、継体天皇の大和朝廷は、磐井と戦うべきだったという側であった。

この勝利によって、日本の統一が確立されたとした。日本史さきにありきの番組であった。

そして磐井が戦った理由や、負けた理由などは、全く触れなかった。

また磐井なきあとの、大和朝廷の外交の失敗や、白村江での大敗などにも触れなかった。

ちょうど菅総理が、学術会議の6名の否認を、総合的、俯瞰的にみて判断したと、説明しているような番組で、九州人としては不本意な番組であった。

磐井の乱の客観的な評価としては、正しくは、磐井政権と畿内政権による戦争であるる。

磐井の乱は、事実としては、畿内政権と磐井政権とのあいだでおこなわれた対等関係による戦争であり、磐井政権領域下の那珂郡に鎮座する住吉氏や宗像郡の宗像氏はともに磐井軍にあり、麁鹿火と戦ったと云うことだ。末期に宗像氏が寝返ったので負けたというせつもある。

この時代には、畿内政権が当該地方を治める官庁としての「屯倉」の呼称はなく、屯倉・官家は畿内政権の統治機構として未だ成立していなかった。

磐井は肥国から北部九州一帯を統治し、畿内政権と対等の立場で対立していたと類推される。


磐井討滅後、その子・葛子が糟屋屯倉を朝廷へ献上したと日本書紀にあるが、糟屋屯倉を差し出すと云う記述は、そこに表現としての矛盾がある。まだ屯倉が九州になかった時代である。
表現に矛盾がある点を見逃し書紀の記述を事実だと考える歴史家が多い。



私の意見は次の「磐井の乱の全貌」でのべている。

西方浄土筑紫嶋: 磐井の乱の全貌 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)


磐井の乱は、百済と友好な継体王朝と、新羅と友好な磐井の間の戦争であった。そして磐井は敗北したが、新羅は次第に百済に侵攻していった。
当時志賀島を根拠地としていた安曇族は磐井とも友好関係にあったので、戦に敗れたあとは日本海沿いに逃れて、長野の安曇野までたどりついた。
当時すでに仏教が日本にも一部伝わっていたので、そのとき仏像をもってのがれたのが、今も長野の安曇野の寺に残っているいるそうだ。
これとよく似た仏像が、対馬や志賀島の地にも存在しているらしい。
百済との友好関係は、継体天皇以後も斎明天皇や天智天皇の時代まで続き、白村江の戦いで惨敗したあとは、新羅の反撃をおそれて大和王朝は防衛体制の強化に努めていた。
しかし天武天皇時代になると、反撃でなく新羅からの友好の使者が何度も大和王朝を訪れている。これは天武天皇が新羅との友好関係の推進者であったことの証明である。
ということは、天武天皇の勝利となった壬申の乱は、第2次磐井の乱であったと言えるだろう。

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