2022年1月23日日曜日

博多のキリスト教と教会

 宣教師の活躍は、長崎や大分とのイメージが強いが、博多でも活発に活動していた。

大友宗麟最盛期の頃、博多は、長崎・大分を上回る、イエズス会の活躍の場であった。

市内だと、聖福寺にザビエルと寄っている。茶菓を用意して、鷹揚に応じる禅僧達を相手に、突如、怒り出して宗論を仕掛けるザビエルに、フロイスも呆れた様子で描写している。フロイス『日本史』一巻にある。

宗麟時代の博多の教会は、博多中学の南側と考えられる。

禅宗寺院〜妙楽寺とされる〜の跡地であり、寄り着く船舶からの税徴収の権利を宗麟から許されたとイエズス会士の報告にあり、奇しくも、現在は、博多南教会がある場所だ。


姪浜にはキリシタン村があったといわれている。
 ルイス・フロイスの日本史には、1587年にイエズス会副管区長のコエリョが一週間滞在したと記されている。

 1692年には、博多塀が見事な白毫寺の竹林から十字架が発見され、福岡藩内では騒動になったそうだ。

白毫寺


これは、平戸からフスタという機動帆船でコレリョが姪浜に来た。そして、秀吉の到着を待ち箱崎へ。箱崎浜にコレリョのフスタが現れると、秀吉は座乗し、博多へ回航させた。来着に博多衆が差し出した進物を、銭以外は全部返して、皆で分けよと秀吉が言ったと云う。
また、この際に、秀吉は、細かにフスタ船内を観て回り、その機動性に感心したと、イエズス会側の記録にある。結果として、秀吉に軍事技術上の感心を呼ぶような行為を行った事について、コレリョ上司のヴァリニャーノは、批判する報告書をローマに送っている。コレリョは問題の人であった。

次の時期は、黒田筑前入部後、慶長18年頃、徳川家康禁教令が発令される迄の間であった。

博多でも、京都、安土に負けずに、『日本史』中はもちろん、他のイエズス会士の報告書簡にも宣教師の活動が出て来る。
 
黒田孝政の時代:
1583年 黒田官兵衛洗礼を受ける。
1587年 秀吉のバテレン追放令を受け棄教したと言われてる。
1601年 福岡城完成
表向きは棄教していたものの、心の中では信仰を続けていた。
崇福寺は黒田藩の菩薩寺で、ここの門は、福岡城本丸表御門だったものを大正7年に移築した。
この門の屋根瓦の裏には十字架が刻まれている。



孝高・長政時代の教会は、日本銀行福岡支店隣の勝立寺敷地にあったとされている。

その寺号は、キリスト教との宗論に勝った事からで、日本側、イエズス会側、いずれの史料からも、そうだと推論される。ただし、該当する宗論は、史料上、確認出来ない。

宗論が行われたとされる時期は、長政が最も手厚く、イエズス会を保護していた。

宗論の結果、孝高と、その弟直之により建設された「日本で最も壮麗」と、イエズス会士の報告にある教会を、宗論の判定により長政が没収し、日蓮宗僧侶に与え、勝立寺を開山させたと云う話もある。

門に十字架の模様が描かれている



該当の宗論は、孝高・長政二代に渡り、キリスト教への寛容な政策を執っていた事に対するアリバイ作りとして、後付けの物語だろう。

なお、勝立寺正面に見える鐘楼にかかる鐘には、その宗論の模様が彫刻されている。


イエズス会史料中の孝高臨終時の葬儀についての記述で
は、孝高創設教会から、孝高遺体を行列をつくり運んだとされる時の距離・方向・所要時間などから、崇福寺は、当時のイエズス会の「松林の中にあった」墓地の跡であったの考えられる。

昭和25年頃、崇福寺中の黒田墓所の調査改修が行

わられた際に、孝高墓地のみ、遺骨が見られず、骨壷中に六文銭が収まるのみであった。

徳川禁教令発令時に、教会の備品が長崎を経由してフィリピンへ持ち出されることが多い。

孝高の遺体も、土葬だったが、現崇福寺にあったイエズス会の「松林のなかの墓地」からもちだされて、長崎、または、フィリピンへ送られたのではないかと、推論される。

現在の勝立寺







警固教会

福岡警固教会(ふくおかけごきょうかい)は、福岡県福岡市中央区警固にある、日本基督教団の教会で、福岡最古の教会。玄洋社関連の数人が創設に関わった。

1877年西南戦争西郷軍に福岡から呼応し、参加した36名の者は政府軍の勝利後に兵庫監獄に投獄させられた。この人たちに伝道したのが、神戸基督教会員たちであった。

最初にキリスト教に入信したのは長瀬半次郎で、長瀬は獄死したが、その死にざまを見て大神範造安永寿らの数名が信仰を告白し、出獄後に郷里福岡で伝道をし教会を建設する活動をした。

1879年12月に同志社の神学生であった不破唯次郎が大神と安永に招かれて福岡に赴任し、日本組合基督教会の伝道が始まった。1880年3月、福岡本町に講義所を設けて、大神は行商をしながら不破を助けた。

1885年6月7日、福岡市中央区大名に会堂を建築して、教会設立式を行った。1886年に不破が転任すると、教会は危機に陥ったが、1888年の沢村重雄の着任で安定した。

1906年にから牧会を始めた中村正路の時代には、大平得三、荒川文六今中次麿佐野勝也らの九州帝国大学らが中心になり充実した活動を行った。1929年には中村鎮が設計した現在の改堂を建設した。1939年には中村牧師が転任する。

野瀬正二牧師の時代に、福岡玉川教会が独立した。

明治の頃、この辺りに技術者等でキリスト教圏から来日した人々の住まいが与えられていたのかもしれない。

一方、櫛田神社前の日本基督教団、社家町教会の礼拝堂はヴォーリーズの設計。

西南大の礼拝堂と共に、歴史的な近代キリスト教建築物の一つである。

追記:小倉のキリスト教

細川忠興は関ケ原後に中津に入り1602年に小倉に藩庁を移します。
 小倉ではガラシャの命日にミサが行われるようになります。現在のモノレール平和通り駅横の北九州銀行のある場所でです。
細川家ではキリシタンに好意的で、宣教師10人、信者2,000人いたと言われています。天正遣欧使節の伊東マンショもいたとされています。 
 また、小倉ではキリストの血とされるワイン造りも行われています。
 1612年禁教令が出されます。
 ミサが行われていた場所は円応寺となり神仏習合で坂尾八幡宮も祀られます。
 禁教令後、細川家はキリシタン検挙を強めます。
 しかし、人の信仰は簡単には消えず、小倉には潜伏キリシタンが多くいたと思われます。
 天正遣欧使節の伊東マンショは禁教令後に長崎で病死していますが、同じ天正遣欧使節だった中浦ジュリアンは小倉の足立山にあった曹洞宗のお寺の近くに潜伏していたといわれています。
1632年細川家が熊本に移封後に中浦ジュリアンは捕縛され長崎に送られ、拷問死しています。

 それ以降、小倉で潜伏キリシタンの歴史は途絶えますが、歴史には残っていない歴史があったと思います。

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