2022年1月6日木曜日

吉野ケ里:高島忠平氏とその後の調査(改訂版)


ミスター吉野ケ里と呼ばれる 高島忠平氏の経歴を見ると、下記のように書いてある。

福岡県立嘉穂高等学校卒業。

1964年に熊本大学法文学部文科東洋史専攻を卒業。

奈良国立文化財研究所を経て1974年より佐賀県教育委員会勤務。

1989年より行われた吉野ヶ里遺跡の発掘調査に際し、保存設備の計画・指揮をとる

吉野ヶ里遺跡保存対策室長に就任。

その後、佐賀県教育委員会副教育長、兼県立名護屋城博物館館長などを務めたのち公職を退任。

1999年より佐賀女子短期大学教授に就任し、2002年から2010年3月までは同短大学長を、退任後は同短大を運営する学校法人旭学園の理事長を務める。

九州出身ということは知っていたが、何故佐賀縣に転職されたのか?と思っていた。

それが、昨日義弟の話で、やっと解かった。

義弟は佐賀の神崎出身であり、地元の高校で歴史を学んだ時の教師が、忠平氏の父であったという。

そのころから、吉野ケ里は、何処を掘っても、いろんな古代の壺や刀剣などが出てくるから、おおきな遺跡が埋まっていると、話されていたという。

当然息子の忠平さんも、子どもの頃から、発掘に興味をもっていたのだろう。

吉野ケ里は、高島親子2代にわたる探求の場所であったのだ。

最近のニュースでは、新たに発掘調査が行われるようで、ここが邪馬台国であったと証明されるかもしれないという。


吉野ヶ里の謎のエリア

R5.6.4.に発掘がはじまり、石棺の蓋があけられた。


中は土砂で埋まっており、赤色の顔料がふくまれていた。
今後中の副葬品の調査が行われるが、その解説TV番組には、高島忠平氏が出られた。
その後の調査の結果は、遺骨や鏡などの副葬品が何も出土しなかったのは、残念であった。
しかし考古学者のほかに、天文学者が歓心をよせて、面白い意見をだしている。

吉野ヶ里遺跡の北内郭軸線は、太陽や月の軌道と同じという説である。



また石室の石蓋の裏に刻まれていた×印の図形は、星座の図形と考えられるという説がだされた。

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