2022年2月3日木曜日

継体天皇の謎

 男大迹王(継体天皇)の出自が、遠い傍系か皇位の簒奪者であるかは現在でも判明していないが、仮に傍系が事実だとしても、応神天皇からの5世孫では、あまりにも血縁が遠すぎて皇位継承権は持っていないと考えられており、男大迹王が勢力地を広げ、実力で天皇に即位したのは間違いないとされている。

継体天皇(男大迹王)の中央進出への道

男大迹王が57歳の時に、武烈天皇が崩御し、天皇の跡継ぎが居なくなった。

豪族の合議が開かれた中で、大連であった大伴金村が男大迹王を推薦し、同じく大豪族の物部麁鹿が「枝孫を妙しく簡ぶに賢者は唯、男大迹王のみなり。」(色々と調べたが、ふさわしいのは男大迹王のみである)と決定し、男大迹王を迎えに行った。

しかし男大迹王は大伴氏、物部氏など豪族の思惑を疑っており、即位を拒否した。

なので、男大迹王の昔からの知り合いであった河内馬飼荒籠が使者を派遣して説得し、男大迹王は彼を信用して天皇に即位した。

男大迹王から信用されていた河内馬飼首は、乗馬や飼育などの渡来技術を持った渡来系の氏族であり、その勢力地は河内国讃良郡四條畷市周辺)である。

四條畷市の木間池北方遺跡から韓式土器、蔀屋北遺跡からは馬の骨や馬具などが発掘されている。この記事から、男大迹王は渡来系技術を持った氏族と、密接に結びついていた事が分かる。

武寧王と兄弟の関係を示す鏡もある

男大迹王は、当時の中心地であった大和、河内から離れていた近江北西部で生まれたが、越前、近江、美濃、尾張に勢力を拡大していき、やがて和邇氏、大伴氏、物部氏などの畿内の大豪族の支持を取り付けた。河内馬飼首などの渡来系氏族を重用しており、それに加え近江北西部の渡来技術が勢力を支えた。


男大迹王が、近江を中心に勢力圏を拡大していた頃、ヤマト王権では大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)と称された雄略天皇が権力争いで皇族や豪族(八釣白彦皇子(兄)坂合黒彦皇子(兄)眉輪王(従兄弟)市辺押磐皇子(従兄弟)御馬皇子(従兄弟)円大臣(葛城氏の首長))の殺害を行い、雄略の死後、在位期間の短い天皇や后や、子が居ない天皇(清寧天皇(雄略天皇の皇子。在位5年、后妃なし、皇子女なし)、顕宗天皇(清寧天皇の又従兄弟。在位3年、皇子女なし)、仁賢天皇(顕宗天皇の兄 在位11年、皇子は武烈天皇)、武烈天皇(在位8年、后妃なし、皇子女なし)が続き、直木孝次郎が指摘したように、ヤマト王権は混乱していたと考えられる。

特に最後の武烈天皇は、民衆の殺戮や刑罰などを進んで行い、楽しんでいた異常な人格者であったとの記事があり、これにより人心は離れ、王権の弱体化が急速に進んだ。

16代仁徳天皇から25代武烈天皇まで10代に渡って続いた仁徳系の大王は終焉を迎え、26代継体天皇の即位によって継体系の大王へ皇統は交替したのである。


皇居の変遷:


男大迹王は、すぐに大和に入らずに、皇居を淀川周辺におき、20年近く製鉄技術などの拠点を広げ、実力を蓄えてから、はじめて大和に入った。

  • 507年2月?、樟葉宮(くすはのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
  • 511年10月?、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
  • 518年3月?、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。本居宣長「古事記伝」に「井乃内村、今里村の辺なり」とあるが,本来古事記には弟国宮は出てこない。また初の幕撰地誌「日本輿地通志 畿内部 山城國」の「弟國故都」項に「弟國故都運亘上羽井内及上上野等有地名西京白井村有地名御垣本  継体天皇 十二年三月遷都弟國」とある。白井村は明治の合併で向日市森本町に編入された。
  • 526年9月?、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。

上叙の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もあるが、憶測の域を出ない。ただし、この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは晩年の5年のみである。

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