2022年2月7日月曜日

棟方志功「瞞着川」のカレンダー

 遠く医王山をのぞむ蛍の名所「瞞着川」の夕景。(富山県南砺市



1945年(42歳)、富山県福光町に疎開。棟方は当地の自然をこよなく愛し、敗戦後も6年8カ月滞在する。浄土真宗にふれる。
1946年(43歳)、富山県に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付ける。この住居は谷崎潤一郎が「愛染苑(あいぜんえん)」と命名。
1951年(48歳)、東京に戻る。

 

 昭和20年4月。東京は連日の大空襲が続いた東京からこの医王山のふもとの石黒村法林寺(現南砺市)に 板画家の棟方志功一家6人が、命からがら疎開してきた。

地獄のような日々から 一転して、このおだやかな福光の風光は桃源郷のように映ったことだろう。

大切な版木や民芸品を灰にしてしまい、絶望のなかで棟方志功は、よし、この地で新しく生きて行こうと決心した。

 青森生まれの棟方志功は、極度の近眼で水辺の小さな花や生きものたちを愛した。山麓の仮住まいの家から、毎日のように手紙投函のため、福光の町はずれのポストまで歩いて通う。30分は要した。

 田園地帯の途中に、豆黒川ともナマズ川とも地元の人たちが呼ぶ小川がある。その土橋で一服するのが志功の日課みたいなものだった。

この川にはもともとカッパに騙されるという伝説があり、志功は面白がって「瞞着川」と名付け、物語にして39柵の板画「瞞着川板画巻」を彫った。


名作「瞞着川板画巻」から25年後、病床にあった志功は
再びこの中から13枚を選び、刷り直して着彩し、令和4年の安川電機のカレンダーとした。


そしてこれが、生涯最後の作品となった。その作品解説の
文中には、自分の運命的な宇宙観を与えてくれた、この地に感謝するという言葉を残している。

物語の文章を正確に記録したブログは見当たらないのですが、カレンダーから要約してみました。

吉千代衛門のところのアネマが子供をおんぶして瞞着川まで来たら、すーぽんと橋に跳ねてきたものがいた。真っ赤なめ、真っ青な体、手も足もねばねば、腹は亀のようだ。この頃は合歓が真っ盛りで、だまっていてもこの川の橋までくると跳ねたくなるのですよ。蓮華がすぐ側の池に大きくガボンガボンと咲いて居るんだから、なんだか道具がそろって居るようなもん。上田秋成さまではないけど、ウロクジの仲間にだまって、好きな放題鯉か恋にでもだきつきたいですよ。この間わたしの昼小屋に「御東」の新門様(皇太子さまのお従兄様)がお出なりましてね。あなたの鯉が評判。恋はやさし。野辺の花よ。夏の日の中に朽ちぬはなよ。こんな唄が流行りましたね。今の藤原さんも、昔は思い切りにこれを歌った浅草のころがあったですね。こんな事でも言って瞞着川の河童に」やられて居るんじゃ無いかなあ。判ったもんじゃありませんよ。ホンマに。
(39冊を12冊に編集しているので、物語の接続が不明な所が多いですね。多少間違いがありそうですが、こんな流れの物語です。)

0 件のコメント:

コメントを投稿