2022年8月28日日曜日

日本海海戦と筥崎宮の大砲

日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍のバルチック艦隊との間で歴史上に残る海戦が行われた。

この海戦は日露戦争中の最大規模の艦隊決戦であり、その結果、連合艦隊は海戦史上まれに見る勝利を収め、バルチック艦隊の艦艇のほぼすべてを損失させながらも、被害は小艦艇数隻のみの喪失に留めた。

この結果は和平交渉を拒否していたロシア側を講和交渉の席に着かせる契機となった。

 115年前のこの日、東郷平八郎連合艦隊司令長官は開戦直前に旗艦「三笠」へのZ旗を掲揚し「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」というメッセージを全艦隊に伝えた。もしもこの艦隊決戦で敗れれば、東郷の言葉通り、「皇国は廃れ」てしまい、ロシアの属国になっていたに違いない。
バルチック艦隊が、極東に健在する唯一のロシア海軍根拠地のウラジオストクへの航路(コース)としては対馬海峡コース、津軽海峡コース、宗谷海峡コースの三コースがあった。




これについては、東郷司令長官はもとより、「智謀湧くが如し」と評された名参謀の秋山真之中佐(作戦担当)などが研究していたものだ。

秋山は、「焦慮細心は実行の要能である」というのが信条であり、「細心さ」の行き届かない軍人(指揮官・参謀)は戦争を企画・指導などできないと日頃から公言していた。その秋山が、これら三コースの可能性については、寝食を忘れて考究し、立案した連合艦隊の作戦計画は水も漏らさない完璧なものだったにちがいない。
 ○ バルチック艦隊が津軽海峡コースまたは宗谷海峡コースを通った場合
 当時は航空機による索敵などない時代なので、もしも対馬海峡を通らなけば、バルチック艦隊は日本連合艦隊の捕捉を免れ、攻撃を受けることなく津軽海峡・宗谷海峡までは行きつける可能性があった。
勿論、連合艦隊に抜かりはなく、バルチック艦隊が対馬海峡に来ない場合も想定し計画を練っていた。バルチック艦隊が対馬海峡に来ないことが判明次第、迅速に津軽海峡あるいは宗谷海峡に急行してこれを待ち受け、いずれかの海峡付近での艦隊決戦が起こったことだろう。
  〇津軽海峡及び宗谷海峡コースの場合は、バルチック艦隊の航行が遅延するリスクがあった。というのも、津軽海峡は機雷で封鎖されているので、損傷艦が出て、混乱している間に日本の連合艦隊に追いつかれて、補足される恐れがあったのだ。
また、宗谷海峡コースの場合も、バルチック艦隊が宗谷海峡を通過する場合には、距離が長いため日本本土の太平洋側沖合いで石炭を洋上補給する必要があり、時間をロスするのは必至だった。

 〇バルチック艦隊は、連合艦隊が北上して津軽海峡及び宗谷海峡で待ち伏せするのを避けるためには次のような「策」が必要だったろう。
バルチック艦隊は、速度の速い少数の囮(おとり)艦隊(フェイント艦隊)を編成し、対馬コースを北上させ、日本の連合艦隊と接触したあとは、これを釘付けにする必要がある。
 連合艦隊が攻撃してきたら、逃げ、北進しようとすれば追撃するという、いわば、ゲリラ戦術がである。
 これを実行したとしても、バルチック艦隊のうち、どれほどの艦が残存してウラジオストックに入港できた(逃げ込めた)かは不明だ。
もしも、有力な艦隊戦力が逃げ 込めれば、対馬海峡・黄海経由の日本の兵站線(シーレーン)に一定の脅威を与えることができたことだろう。
 この津軽海峡・宗谷海峡コース案の特色は、対馬海峡コースに比べれば、「一か八かの大勝負」をせずに「生き残りを優先」した点である。

 そのぶん、日露戦争の戦局全体を決定づける効果――対馬海峡・黄海の兵站線(シーレーン)を切断して満州軍を孤立化させる――は得られなかっただろう。

 ○ バルチック艦隊による奇策――東京・大阪への直接攻撃




 ただ、想像逞(たくま)しくすれば、次のような奇策もあったのではないか。即ち、こういうことだ。バルチック艦隊を3つに編成する。第一グループは、前述の速度の速い少数の囮艦隊(日本連合艦隊を拘束する任務)。第二グループは瀬戸内海を経て大阪湾に向かう艦隊。第三グループは東京湾を目指す主力艦隊である。第一グループの任務については上述の通り。
 第二グループは豊後水道から侵入して、まず門司・下関を砲撃し、満州への軍需物資の積出港を破壊する。関門海峡を機雷封鎖することも必要だ。次いで瀬戸内海を遡上(そじょう)しながら山陽線を砲撃し、満州向けの兵站輸送を担う列車輸送にダメージを与える。呉の海軍工廠(こうしょう)(当時、ドイツのクルップと比肩しうる世界の二大兵器工場)も砲撃・破壊する。最終的には大阪湾に入り、海軍陸戦隊を応急に編成し、大阪(可能なら京都も)を占領する。日本の連合艦隊の攻撃に対しては、大阪市民を人質にとって対処する、というものだ。石炭や食料・水などは「現地調達」による。勿論、海賊のように略奪するわけではなく、ルーブルや金を支払って「購
入」するのだ。バルチック艦隊には貴金属のインゴットなどを積んだアドミル・ナヒモフ号が随伴していたのだから。
 第三グループは東京湾口から侵入して、先ずは横須賀海軍基地・海軍工廠などを砲撃する。一隊を湾口に残置して、日本の連合艦隊の攻撃に備える。主力はさらに東京湾に侵入し、皇居を射程圏に収め得る水域に侵入する。海軍陸戦隊を応急に編成し現在の港区付近の要点を占領し、日本政府との交渉拠点を設ける。石炭や食料・水などは「現地調達(強制的に購入)」による。
このような「不敗・人質」態勢確立後、ロシア本国からシベリア鉄道~ウラジオストック~舞鶴経由で、ニコライ二世勅任の外交交渉団を速やかに派遣してもらう。大津事件で日本に遺恨を持つニコライ二世は、この挙を成し遂げたロジェストヴェンスキー提督に満足したことだろう。
 このような「奇策」を採用していれば、バルチック艦隊は対馬沖で海の藻屑(もくず)にならずとも、生き残るだけではなく、損害を最小限にして敵(日本)の策源地にダメージを与えるどころか帝都(天皇)さえも人質として外交交渉に持ち込めたことになる。
 日本は、昔も今も、極めて危うい安全保障環境の中にある。

しかし実際のバルチック艦隊は、長旅の疲れを背負いながら、津島海峡を通過する作戦を実行した。

ぎりぎりまで待ち受けた東郷元帥の日本連合艦隊は、有名なT字作戦で見事にバルチック艦隊を大破させた。

ロシア艦隊 38隻中 21隻を撃沈。
戦死者約5000名。捕虜は総司令ロジェストヴェンスキー含め約6000名。
日本側の被害は沈没 3隻。
戦死117名だった。
設立二百年のロシア海軍を設立数十年の日本海軍が、その時討ち破った。
それが日露、日本海海戦だった。

襲来したバルチック艦隊を迎え撃つ戦場となったのは対馬沖だった。
ここで「丁字戦法」東郷ターンと呼ばれる艦隊展開が海上に現れる。
敵前方に対し軍艦の横腹を見せることは、的を大きくし自滅するリスクと、主砲、艦隊砲の全面砲撃を浴びせることのできるメリットが共存する。
東郷平八郎は「Z旗」=「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮闘努力せよ」を意味する旗を掲揚し、約2分間で12発の砲撃を浴びながらも横腹を向けた。
「Z旗」掲揚の決意の通り、この一戦に敗北したら日本海はロシア領海とされるばかりでなく現在の北方領土どころではない国土割譲、いや占領もあり得た。
当時の軍艦はまだ石炭をくべる蒸気式軍艦だった。地中海ジブラルタル海峡向こうからアフリカ大陸喜望峰を周り、大量の石炭、真水、食糧を積み込み、途中補給も繰り返し7ヶ月もかけた長期航海をしてバルチック艦隊は対馬沖までやって来た。




ロシア兵が疲弊する間、迎え撃つ日本は海戦演習を繰り返し、前哨戦となった旅順からのロシア艦隊をバルチック艦隊に合流させないための初戦にも勝利し実績経験をも積んでいた。
そして世界中を驚かせた「30分」が始まる。前方を突き合わせ近づき合った双方艦隊のまみえる対馬沖で、突然の旋回を日本海軍は見せる。無防備な横腹を向けた回頭ターンで2分間の砲撃を耐えきったあと、艦砲総砲撃を開始! ロシア砲弾発射数9,050発、日本発射数11,159発の猛攻撃の応酬で進路を変えられずに突っ込んで来たバルチック艦隊は次々と対馬沖に沈んでいくこととなった。


日本海海戦での砲撃の音は、箱崎や津屋崎でも聞こえたという。現在は、南懐仁の大砲が筥崎宮に保管されている。

戦前は海岸近くの参道に日露戦争に使われた巨大な大砲も備えつけられていた。
私の小学生のころは、箱崎の白浜で海水浴のときは、その大砲の上で記念写真をとっていた。
戦時中に鉄不足で、解体されてしまった。
南懐仁の大砲




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