2023年11月16日木曜日

関ケ原の戦後処理  小磯栄一の説

 関ヶ原の戦後処理って、なんだか不公平な気がしますよね。首謀者でも何でもないのに切腹させられたり改易されたりする者がいる一方、西軍総大将だったのに領地を減らされるだけだったり、派手に戦ったのにお咎めなしだったり・・・。

簡単な話、関が原の戦後処理は「裁判」ではないからですね。
責任の大きさに応じて、領地を没収されたり減らされたりする、というわけでは、必ずしもありません。
領地を没収されるか、減らされるか、そのままかは、そのときの立場の強さ弱さによります。
関が原で、石田、大谷、宇喜多、小西という連中は、思い切り戦ってほぼ全滅しちゃってるから、取り潰しても問題ない。
だけど、毛利、島津、上杉、佐竹、こういう連中は関が原で戦ってないから、本国に十分な兵が残っています。
上杉も毛利も、実はほとんど戦っていません。従って兵が全滅してるわけでもなく、相変わらす領地でがんばっている。だから戦争しようと思えば、まだできる、ただし、たぶんもう勝ち目はないけど。
こういう連中に「切腹、改易!」と言って、死ぬ気で抵抗されたら面倒なことこのうえない。
武家は、「家名を残す」ことが第一です。家名さえ残れば、領地はまた復活させられるかも知れない。とにかく「家名断絶」だけは何としても避けなければならない。
だから「減封」と「改易」は天と地ほど違う。領地を半分、いや五分の四没収と言われても、負けた以上は仕方ない、だから、こいつらは「大幅減封」でも従うわけです。
ただし、全部没収といわれたら、これはもう死ぬ気で立てこもって全滅するまで抵抗するぞ、という気になられてしまう。そうなっては面倒ですから、適当なところで収めるのが利口なやり方です。
島津は、上杉や毛利よりも、もっと有利な(家康にすれば面倒な)立場にあります。
島津で関が原に来たのはごく少数、それが全滅に近い被害を受けたとしても、大部分の兵力は本国で様子を見ていただけです。
さらに、薩摩は南の端にあって、遠征するのは大変だし、本気で抵抗されたら滅ぼすのは骨が折れます。下手するとまた内戦になり、関が原の勝利がチャラになってしまう。
とにかく家康は、なるべく早めに戦後処理を終え、「(事実上)徳川家康による論功行賞」を済ませ、徳川の天下を確立してしまいたかった。
だから、島津とは「手を組む」ことにしたんです。


ちなみに、以下は「奇説」に属することかも知れないので、暇があったら眉にツバをつけて聞いてください。
十九代目徳川宗家、つまり正真正銘の家康の直系子孫である徳川家広氏は、かつて月刊誌「文藝春秋(2012年2月号)」に
「関ヶ原の戦いは、家康と島津が組んで豊臣体制を一掃しようとした戦いである」
という文章を寄稿しています。

最初は「はあ? 何を頓珍漢なことを言ってるんだ、殿ご乱心か?」と思ったものですが、読んでみますと、なるほどなあ、と思うところが多かったです。
私なりに要約すると、豊臣家の推し進める「中央集権化」にこれ以上耐えられない、という外様大名たちが、昔ながらの封建制(つまり各々の領国を「独立王国」として独自の支配権を認め、それを将軍がゆるくまとめる体制)を再興してくれるための「御神輿」として、家康を担ぎ上げたのだ、そして皆で罠を張って「豊臣政治ゼッタイ」の石田三成を潰したのが「関ヶ原」の真相だ、というんですね。

これが本当ならば、島津が領地を減らされなかったのは当然、むしろ豊臣時代以上に「独立勢力」としての地位を確立する形になったのも狙い通り、といえます。
家康ソックリ(?)の風貌でサブカル好きのこのお殿様の筋立ては突飛すぎて、さすがに、全面的に賛同するには、どうかな?とは思いましたけど、

秀吉の推し進めていた「中央集権化」は、秀吉にやむなく服属して臣下になった外様大名たちにとっては「圧迫」でしかなく、我慢できないものだった、という空気感は、確かにそのとおりであると思われます。
乱世から天下を統一した一代の英傑が、「日本のすべてを自分の思想で作り変えよう」という情熱で邁進するのはごく当然で、だから秀吉の仕事は文句なく偉業です。これは否定できません。
そのために大名たちの既得権が破壊されていくのも、歴史の流れとしては当然なのですが、個々の大名たちが納得していたかは別の話です。
秀吉の集権的な政治に対し、満天下に不満が鬱積していくのは事実です。
太閤検地というのは、つまりは「一所懸命」で先祖代々守ってきた唯一無二の領地が「数値化」されることです。度量衡の統一というのは、日本中の土地は代替可能であり、「だれそれ固有の領土」という概念はなくなる、ということです。
おまえの領国は五十万石である。よろしい、ならはこっちの別のところに百万石の領地をやるから、前の領地は明け渡せ。二倍の出世だ、どうだ嬉しいだろう? 何も不満を言う必要はないだろう?
これが秀吉の「外様大名政策」です。こうして黒田は播磨から九州に、伊達は米沢から仙台へ、上杉は越後から会津に、家康は東海から関東に移されました。
みんな喜んで従ったはずはないんです。「おのれ、秀吉め」と不満を抱えたまま引越しさせられたはずです。
先祖が手塩にかけて守り育ててきた、この唯一無二の領地を、命懸けが守るのが「一所懸命」であり、それを保障してくれるのが「武家の棟梁」というものです。
石高が同じなら値打ちも同じ、という秀吉のやりかたは、武士ではなく商人の考え方です。
所詮は関白だの太閤だのがトップにいる政権では、武士の心が分からないのです。
島津は、地理的事情から秀吉の転封政策の餌食になってはいません。
しかし将来的に「薩摩を空け渡して他所に移れ」と言われたら、どうします?
たとえ石高という数字が何倍になると言われても、そんなことで薩摩を捨てることは絶対にありえない。冗談ではない。
しかし、秀吉のあとを石田三成などという「武士の心が分からない計算官僚」が引き継いだら、いすれぞういう目に逢うときが必ず来るだろう。
島津がそう考えていたとしても、ムリのないところです。
だから本当に家康とウラで結んだかどうかは分かりませんけど、少なくとも「本気で三成に勝たせるつもりは最初からなかった」のは確かです。
これは島津だけでなく、すべての大名について言えることです。
大名として領地をもらっても、統治方法についていちいち口を出されたり、急に他所に転封させられたりするのはたまりません。
それは秀吉という人物が、天下を取る過程で、一環して主君から兵隊を与えられて戦っていた「エリートサラリーマン」だったから、でしょう。
大抵の戦国大名というのは、自分自身の領地をまもるために一所懸命に戦ってきた「中小企業のオヤジ」なんです。
しかし、そうした経験は、秀吉にはありません、そして、石田三成にも。
本当の「武士のマインド」は、そういう「自分の土地に一所懸命」の経験がある者でないと分からない。
大多数の大名は、エリート石田三成ではなく、たたき上げ徳川家康のほうに親近感、武士の棟梁としての期待を感じていたんです。
家康がのちに作る「江戸幕府」は、封建制の基本に忠実なシステムです。
外様大名に領国経営の全権を与え、各藩の内政には一切干渉しない、そのかわり国政には一切口を出させない、という体制を築きました。
関ヶ原直後の論功行賞はべつとして、江戸幕府の体制が固まったあとは、よほどの不祥事を起こした場合を除き、外様大名は先祖伝来の土地から動かされることはありませんでした。
煩雑に領地変えを命ぜられたのは本来「徳川の家来」であり幕府の役人をやる譜代大名だけです。
外様大名たちは安心して領国経営に集中でき、各地方の文化がそれぞれ花開いた、ともいえるし、ま、それが日本全体の経済発展を阻害したんだよ、とも言えますけど。
一代で天下を築いた英雄は、必ず強力な(強引な)中央集権政策に邁進し、大方の反発を買って一代で潰れます。
秦の始皇帝、隋の煬帝、天智天皇、平清盛や後醍醐天皇もそうかも知れない。
そのあとには多少いい加減な地方分権的な政権ができ、少々の矛盾をかかえたまま、ゆるゆると続きます。
中央集権と地方分権は、振り子のように往復しながら、螺旋状に歴史は進歩していくものです。その時、その時でどちらの人材が求められるかで、誰が天下を取るのかが決まります。
戦国乱世を平定するために必要とされたのが信長、秀吉であったことは事実ですが、平定された後の日本をどう運営していくのかという、いわばフェイズが変われば、おのずと別のタイプの「天下人」が歴史に必要とされるでしょう。

そのために、島津をはじめとする大名たちが選んで担いだのが家康であった、ということです。
すべてのリアクション:
あなた、他17人

0 件のコメント:

コメントを投稿