2025年8月12日火曜日

杉原千畝の若い頃の業績

杉原千畝は、「政府の命令に反して、ユダヤ人に約6,000枚の日本通過ビザを発給した外交官」として広く知られているが、若い頃に、ソ連との北満州鉄道譲渡交渉に携わり、功績を挙げていたことはあまり知られていない。

1932年(昭和7年)3月、事実上の日本の傀儡国家として満洲国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で満洲国政府の外交部に出向。

1933年(昭和8年)、満洲国外交部の書記官としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉に携わる

満洲国外交部は、鉄道および付帯施設の周到な調査をソ連側に提示した。

ソ連側は譲渡の代償として当初は荒唐無稽な6億2,500万円を要求し、満洲国は5000万円を提示していた。

杉原らは、譲渡の代償として1億4,000万円とソ連側従業員の退職金3000万円を満洲国が負担することで北満鉄道讓渡協定締結し、東清鉄道は満洲国に買収された

ソ連側の提示額は当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原らによる有利な譲渡協定の締結は外交的勝利であった

外務省人事課で作成した文書には、杉原に関して「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせりという記述が見られる。

2025年8月10日日曜日

古賀市にも大雨警報

 8月10日大根川庄橋の水位グラフ。(この落合地区は昔の水害地区)

18:00頃、3mの氾濫危険水位まで上がったが、あと落ち着いている。




11日 9:00 その後は安定状態。






[千早]の語源 いろいろ

 ◎「ちはや(襷襅)」

「いちはや(いち早)」。「い」の脱落。「いち」は進行感を表現する「い」による、「いたり(至り)」その他になる、動詞「いち」の連用形。「はや(早)」は「はやし(早し)」の項。 「いちはや(いち早)」は、表現としては「いきはや(行き早)」に似ている。

進行が早い。事態の成行が早い、ものごとが効率よく進む、もの、の意。

服の袖を働きやすくまとめるものであり、巫女などが雑事的なことをする際に用いる「たすき(襷)」です。後には、同じような目的の仕事着(外出着?)も「ちはや」と言う(巫女の衣裳と言えば、上白、下赤がよく知られますが、あれの上に羽織るように着るものです)。

千早 (ちはや・ 襅)とは、 日本 において古くから 神事 の際に用いられた衣装で、主に女性が着た。 

古代の 貫頭衣 の名残とされる。 



現代では 小忌衣 の一種とされ、身二幅・袖一幅、脇を縫わず衽(おくみ:着物の前身頃に重なる部分)がない以外は通常の単物の和服に似た形態をとる。 袖は縫わずに 紙縒 で止めるのは、もともと袖がなかった名残である。

在原業平の「ちはやふる 神代もきかず 竜田川  からくれなゐに 水くくるとは」という歌

  • 「ちはやふる」:神にかかる枕詞で、勢いの激しいことを表します。
  • 「神代」:神が治めていた時代を指します。

千早振る』(ちはやぶる / ちはやふる)は、古典落語の演目で、千早は花魁の名前。

『ちはやふる』は、末次由紀による日本女性漫画。『BE・LOVE』(講談社)において2008年2号 から2022年9月号まで連載された 。連載終了後、同誌同年12月号にて千早たちの卒業後の瑞沢かるた部を花野菫をメインとした展開で描いた番外編「はなのいろは ちはやふる番外編」が掲載された 。
競技かるたを題材とした少女漫画。本作の主人公は名人・クイーンを目指す少女・綾瀬千早。


千早城

鎌倉時代末期、幕府を倒すため後醍醐天皇方の楠木正成が金剛山一帯に赤坂城(下赤坂城)・楠木城(上赤坂城)などからなる城塞群を築き、本城の上赤坂の背後に築いた詰城が千早城。

千早川の渓谷を利用し、三方を絶壁で囲まれた山城で、背後には金剛山が控える要害の地。尾根上に配置された13の曲輪と、尾根につながる稜線上に配置された9の曲輪で構成されている。1333年(元弘3・正慶2)1月28日、20万の鎌倉幕府軍は進軍を開始し赤坂城が落城。楠木城は1ヶ月の籠城戦を行ったが水を絶たれ落城。残すは1,000人ほどが籠城する千早城のみとなったが、寄手に大石や大木を投げ落とし矢を射かけるなどの奇策や、夜襲と徹底的なゲリラ戦にあい、寄手は多数の死者を出し続けた。籠城は100日にもおよび、幕府軍が千早城に釘付けとなっている間に、新田義貞が挙兵し鎌倉幕府は滅亡へと追い込まれることとなった。

          香椎と千早




御神木・綾杉の石碑「ちはやふる」
- 福岡市東区香椎宮 -
     「千早ふる 香椎の宮の綾杉は 神の みそぎに たてるなりけり」
 香椎宮の狛犬を抜け、石段を上ると朱塗り囲いの大杉があります。この木は香椎宮の象徴、パワースポット・御神木「綾杉」(あやすぎ)です。綾杉は炎上や台風などで何度も倒れた記録がありますが、その度に新樹が生れ出て成長したと言われています。まさしく神の木であり、この木の下に立つと生命のパワーを感じます。木の前に綾杉を詠んだ「千早ふる」の石碑があります。鎌倉時代に編集された「新古今和歌集」の歌の一つですが、残念ながら詠み人知らずで作者は分かりません。

2025年8月5日火曜日

戦後80年の記憶

戦後80年で、大勢の人の記憶が報道されている。大正15年生まれの私の記憶をまとめてみる。

日米開戦は旧制福岡中学校3年生の時で、軍事教練が強化されたが、もう不安のほうが強かった。

旧制福岡高校では3年の制度が2年に短縮され、夏休みもなく、学徒動員では佐世保海軍基地の弾薬庫工事や三菱化成工場のプラスチックガラス工場での作業に動員された。

徴兵検査も1年は早く実施され、乙種合格となったが、兵役は理系学生のため延期されて、九州帝国大学入学を許された。

大学では、百武元海軍大将が総長となり、海兵式敬礼を要求し、3年を2年間に短縮するという計画で、休日なしで授業が開始された。

沖縄陥落、福岡大空襲と続き、自宅も少し被害をうけた。
その後、広島、長崎の原爆投下とつづき、ついに無条件降伏の敗戦となる。

8月9日は、小倉から長崎に移動する原爆搭載のB29が福岡上空を通過する時も、空襲警報は出ていたが、講義は継続されていた。



長崎原爆投下の直前に落とされたら落下傘爆弾(ラジオゾンデ)を、翌日九州大学で分解調査することになり、その作業に参加したのが、貴重な体験であった。




敗戦直後、西部軍の貯蔵食糧を市民に分配する夜間作業にも動員され、徹夜作業をした。

敗戦後、教師も学生も混乱状態となり、2ヶ月の特別休講となった。

特別休講中、香椎の千早に出来た「米軍キャンプ基地」の作業員に、地元隣組から動員されて、2ヶ月ほど働いた。少し英語が話せることから、PXでの食品の整理作業であったが、比較的楽な仕事で、米語の勉強にもなった。

古賀市でも、戦後80年特集展が開かれている。中会議室では原爆とその被害の展示が、今年は大きく展示され、その一廓で、私が去年の冬に講演した「原爆とラジオゾンデ」のビデオが上映されている。






毎日新聞では紹介されたそうだ。

2025年8月4日月曜日

100歳の回想


 7月26日の玄界義塾での講演を無事終えてほっとしています。猛暑の中予想以上に参加者が多く、有難く思っています。準備した資料が多すぎて、説明したのは5,60%で時間切れでしたが、要点はほぼ話せたと思います。後半の資料を、もう一回話したらという意見も出ましたが、やがて老人ホームに引っ越すので、その後の体調次第になりそうです。無事に満100歳を迎えたら、話すことを考えましょう。

86歳がの時の玄界義塾講話
と今回の講話で、安川電機と古賀の関係にふれた。古賀に安川従業員のために作られて小さな住宅団地がある。戦時中に安川電機は、工場の疎開地として6万坪の土地を購入していたが、敗戦になり返還した。その後住宅公団などに転売されたが、その売れ残りが住宅団地になったらしい。疎開地があった証拠として、市の図書館横の駐車場の道路の側に、安川所有地の杭が残っている。





2025年7月31日木曜日

三角波対策の歴史

 三角波(さんかくなみ)とは、進む方向が異なる二つ以上の波が重なり合ってできる、三角状の、波高の高い波のことである。波の峰がとがっている

例えば、暴風の中心が通る水上などに起こる。暴風域のいたるところで波が発生しているため、それらの波が全て様々な角度で重なりあうためである。また、絶壁や防波堤などの近くでも生ずることがある。入射波反射波が重なりあうためである。また、潮流の向きとの向きが反対の場合にも生じる。

船乗りからは大変恐れられている波である。船が下から繰り返し短い周期で突き上げられ揺れ幅がみるみる大きくなったり、あるいは予測不能なタイミングで突発的に突き上げられるようなかたちになり、突然安定を失い沈没させられてしまうことがあるためである。

中程度以上の大きさをもつ安定した船であっても、あっけなく沈没させられてしまうことがある。経験豊富な船乗りでも打てる手はあまり無く、できることと言えばせいぜい三角波が生じそうな海域には近付かないこと、また入ってしまった場合はその海域から早く脱出すること。 また、転覆や沈没が避けられない状態に陥ったら、敢えて船体を座礁させることくらいしかない、と言われている。日本列島の近海では、東北地方の東海域に多発し、船舶被害も多発していた。明治時代には、外国から輸入した軍艦が三角波で折れて、沈没した事件もあった。

このあたりの海底の地形も複雑で、今回の津波の到来も複雑であったから、三角波に関係しているかもしれない。


九州大学造船学科の組織に属する応用力学研究所で、三角波の造波機をつくり、三角波に強い船体の構造を研究する計画が、昭和30年代後半に、津屋崎の敷地内で始まった。
安川電機の社長安川寛は、東大工学部機械学科の講師だった時代に、栖原教授のもとで学位をもらい、父安川清三郎の急死で、安川電機の社長に就任し、その後栖原教授を研究所顧問に招いていた。
栖原顧問の息子さんが九大の教授で、三角波の造波機開発の担当者だったので、その制御装置の製作を、安川電機に依頼された。
特殊な装置なので、事業部では対応できず、研究所の私の研究部隊が制御装置や駆動装置の設計、製造を担当し、無事三角波を発生させることができた。
当時国内は初めての装置で、海外でもまだ無かったようなので、多くの見学者が来られた。

その見学者の一人に、長崎海洋気象台の石黒鎭雄さんがおられた。

 
明治専門学校(現九州工業大学)電気工学科出身ということで、私も非常勤講師をしていたので、記憶に残っていた。電気屋は波の形をフーリエ変換してエネルギー計算するのが得意で、その成果が認められ、英国のNIO研究所からの招聘をうけて、英国で北海の波の研究に専念されることになった。

当時1954年生まれの長男の一男さんは5歳であったそうだ。すっかりイギリス人として成長した一男さんが、ノーベル文学賞の作家となったので、父の鎭雄さんも[時の人]となった。

九大の栖原教授たちが、NIO研究所を訪問し、石原さんの研究装置を見学したさいの写真がネットで紹介され、晩年の写真も紹介された。



87歳で亡くなれたそうである。

最近では、三角波による事故のニュースも無くなったようである。



2025年7月10日木曜日

五竜号の碑再建

 1944年2月12日。長崎県諫早市高来町の山中に1機の航空機が墜落した。軍民共用の輸送機「五竜号」。50年以上前に慰霊碑も建てられたが、ここ最近は忘れられた存在に。80年前に起きた悲劇の実態をあらためて掘り起こそうと地元の人たちが取り組んでいる。



 今年2月12日。諫早市内の寺で住民と墜落機の犠牲者遺族ら60人が参加し、法要が営まれた。








墜落現場に立つ慰霊碑を前に,墜落事故で亡くなった須田重蔵大佐の孫で、北海道大学医学部の客員教授の須田浩太さん(57)は涙ぐんだ。

「19年前に訪れた際は、亡くなった人々はこんな薄暗い山中で寂しいだろうなと思った。今は明るい空間ができて喜んでいると思う。地元の人たちが心を込めて供養して下さり、感謝しかありません」。

 第2次世界大戦の間、日本の民間航空は自由に乗客を乗せることができなくなり、民間輸送機は軍の管理下で輸送任務を担うことになった。五竜号は日本の支配地域と本土間で効率的に連絡をとるため、航空輸送を独占営業していた大日本航空の双発輸送機。三菱製で爆撃機を改装。「MC-21」と呼ばれていた。




最初の慰霊碑は68年9月、地元の深海地区山林財産管理組合(勝良重友組合長)が建立。50回忌法要を報じる記事(93年2月13日付)を通して、この頃まで供養されていたが分かる。
 「こんな山奥にあるなんて気付かない。忘れてはいけない戦争の歴史なのに」。

中溝さんら3人は転がっていた線香台のかけらを拾い集め、線香をたき、手を合わせた。より分かりやすい場所に碑との距離を示した案内板を設置した。




私の叔父「狩野 毎」も、乗員の一人として戦死した。わが夫婦は、以前の記念碑の場所を訪ねて、お参りした。私の母の一番年下の弟だったので、大日本航空のパイロット時代は、雁ノ巣空港に来た時は、いつもわが家に泊まっていた。


日米開戦で軍属となり、シンガポールの海軍輸送隊の隊長をつとめていた。下の写真の左下。






記念碑を下山し、麓の曹洞宗の寺でお経をあげてもらった。母の実家は曹洞宗であったからだが、偶然にも古賀の小山田の長勝禅寺と兄弟寺であった。

https://ereki-westjapannavi.blogspot.com/2024/08/blog-post_14.html

2025年7月6日日曜日

アブダビ政府の「サディヤット文化地区」プロゼクト。


アブダビ政府が推し進めている一大国家プロゼクト「サディヤット文化地区」の構想は偉大である。
 

その国家プロゼクトに、日本の「チームラボ」が選ばれたのは、一つの出会いが、きっかけであったようです。
チームラボのメンバーの一人が、父親の仕事の関係で、5歳の時からアブダビで育ち、多くの友人がいたそうです。
日本の「チームラボ」が有名になり、幹部が来日したとき、そのメンバーと再会し、採用の話が即決したそうです。
(福岡でもPayPayドーム福岡の隣で、「チームラボ」の作品が見れるようです。)

福岡の作品



アブダビの現場1


アブダビの現場2

作品1

作品2

作品3

レーザー装置


グループラボの東京事務所

2025年7月5日土曜日

沖縄トラフの図

沖縄トラフで地震が多発している。また政治的境界も微妙な地域である。