2017年8月18日金曜日

古賀・福津の飛行場

私の叔父がパイロットだったので、幼い頃から飛行機には関心があった。学生時代は勤労動員で、雁ノ巣飛行場や福岡(席田)飛行場の整地作業にでかけた。

そして福岡での飛行機の歴史のはじまりは、名島の水上飛行場と思い込んでいたけど、最近になり古賀、福津にも飛行場があったことを認識した。

日本陸軍の航空機採用は、明治43年(1910)の日野・徳川両大尉の代々木練兵場での初飛行よりはじまる。
その後航空機時代の幕開けがはじまり、大正時代より毎年1回の陸軍大演習に、飛行機の航空訓練が加えられた。

1)古賀の飛行場:
九州での初飛行は、大正元年で、大濠城外練兵場で行われた。3万人が見物したという。

大正5年(1916)11月11日から14日にかけて福岡地方で陸軍特別大演習が行われた。
この演習に飛行機を参加させるために、埼玉県所沢から福岡県久留米に四機の飛行機を空輸による長距離移送に成功した。
大演習では、大濠城外練兵場と、古賀町花鶴の仮設飛行場の間で模擬航空戦が行われた。
古賀飛行場の詳細な資料は見当たらないが、いまのJR線沿いの花鶴団地あたりであったようだ。



2)津屋崎の飛行場:
第2次世界大戦の末期に、津屋崎飛行場ができたことは、うすうす知っていた。今年8月の花田勝広さんの講演でその具体的図面が示され、あらためて飛行場の姿をイメージできた。


いまの福岡空港の移転先として、新宮湊沖に海上飛行場が計画されていたが、これは今頓挫している。

西山にヘリの基地があるだけで、福岡東部の飛行場が皆無になっていることは、平穏の徴とみてよいだろう。

2017年8月17日木曜日

終戦記念日前後の記憶

戦後72年の新聞記事で思い出したのは、「対戦車戦闘訓練」のこと。
昭和20年頃の大学生の教練は月1回くらいで、中学や高校のように武器庫もない。11月からの米軍九州上陸作戦に備えて、座布団爆弾を戦車のキャタビラの下に投げこむ自爆訓練。
2mくらいの竹竿のさきに小形座布団をつけて、塹壕のなかからとびだす練習であった。

名簿順ですか?いろは順になりませんか?と秋吉くんがいうと、どちらでも俺は早い順番だと今任くんが最初にとびだしたのを憶えている。みな死を覚悟しての半分遊び感覚の教練であった。

艦載機が上空を飛び交うようになり、町を歩くのも物騒になってきた。出来たばかりの3号線は道幅がひろく、車も殆ど通らない時代だ。のんびり歩いていたら前方にグラマンの機影が見えたと思ったら、いきなり機銃掃射をしてきた。

道路に1m間隔くらいに土煙があがる。あわてて左によけて、難をのがれた。


西戸崎上空で空中戦がはじまり、1機が螺旋状に落ちはじめた。
やったと思ったら、その落下する翼に日の丸が見えた。ゼロ戦のパイロットも、もう初心者ばかりの時代になっていた。

7月26日のポツダム宣言内容が27日の新聞に載った。本土4島が日本として残るという内容は、魅力的だと友人と語ったが、翌日鈴木内閣がこれを拒否したので、がっかりしたと、当時の日記に書いていた。原爆をうける前では、鈴木貫太郎もまだ降伏をいいだせなかったのであろう。

原爆のことは、別のブログにかいたので、ここでは触れない。
https://gfujino1.exblog.jp/9290692/

8月14日になり米軍機がビラをまいた。

日本はポツダム条約を受け入れたという内容で、学生らが助教授に確認しにいったが、勿論推測の話しかきけなかった。

8月15日の終戦玉音放送のあと、西部軍将校が数名大学にきた。みな大学卒OBの将校で、以前にも数回きたことのある顔である。
軍需用備蓄食料を米軍にとられる前に、福岡市民に配給するので、明日の夜手伝ってくれという。17日の夜、板付飛行場近くの倉庫からトラック1台に荷物をつんで、主に博多区の町内会を一晩中、配給してまわったのを覚えている。

ご苦労賃にミルク缶をひとつもらった。

その翌日、工学部講堂で学部長の講話があった。
「原爆によってアメリカに敗れたが、これからの研究で小型原爆をつくり、ひそかに米本土に持ち込んで、ワシントンで仕返しをする覚悟が必要だ。」
退役技術将校の教授の最後のひとことだったが、すぐ退職された。

2017年8月14日月曜日

日本海軍の電波技術と伊藤庸二大佐







太平洋戦争の記録をよむと、日本海軍は電信の暗号を解読され、電探(レーダー)で居場所を計測されて、実戦で次々に敗北し、総司令官山本五十六も戦死している。


この海軍の中で当時誰も目を向けなかった電探の開発に心血を注いだ技術将校がいた。

その人は伊藤庸二大佐で、中川靖造著『海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち』に比較的詳く紹介されている。

経歴の概要。
伊藤庸二(1901~1955)
明治34年(1901)に千葉県御宿に教育家伊藤鬼一郎の長男として生まれる。
大正13年(1924)東京帝国大学工学部を卒業後海軍造兵中尉に任官した。
昭和2年(1927)に海軍より独逸ドレスデン工科大学に留学し、八木秀次博士の勧めでBK振動の発見者であるバルクハウゼン教授に師事し、特殊振動管の研究を行い、工学博士号を取得した。

戦中は海軍技術研究所の技術大佐としてマイクロ波レーダーの開発に携わると共に、マグネトロンの研究に没頭し、大戦末期には海軍技術研究所島田分室で大出力マグネトロン「Z装置(怪力光線)」の開発を指揮した。
(戦後は光電製作所を立ち上げ電波方向探知機の製造を行うと共に、財団法人資料調査会の役員として帝国海軍に関わる資料の保存・研究に尽力した。防衛技術研究所の開設が決まると、その初代所長への就任を要請されたが昭和30年(1955)5月9日に54才で急逝した。
なお、戦前日本無線で当時世界最高出力の水冷式マグネトロンを開発した中島茂は伊藤庸二の実弟である。)

伊藤は電波技術を索敵、攻撃兵器に応用すべきと早くから提唱していた人物で、昭和十五年、遣独軍事視察団に随行した際、実戦配備されていた「ウルツブルグレーダー」を目の当たりにし、その兵器としての威力に衝撃を受けた伊藤は、ウルツブルグレーダーに関する詳細な報告書を作成、艦政本部に提出した。

当初は艦政本部は、そんなものは暗闇に提灯をつけるようなもので、海軍の伝統である奇襲攻撃には向かないと、取り合わなかった。
伊藤は研究所内に伊藤教室をつくり、若手の電波技術教育の充実を行い、さらにバルクハウゼン博士の招聘を行い、ドイツ海軍が夜間でも電波で測距できる装置を開発したらしいという話を聞きだしたたりした。
このような情報活動と、陸軍が電探の研究に着手したこともあり、海軍上層部でも電探技術の重要性が徐々に認識されるようになり、昭和十六年八月、ようやく海軍省は「電波探信儀研究着手」の訓令を発し、九月には伊藤を主任として電探兵器の開発が開始された。
この頃ワシントン駐在の海軍武官が米海軍の装備をよく調べると、おかしなアンテナが各軍艦のマストについていることがわかった。真珠湾攻撃の4ケ月前のことである。

伊藤らは、戦時中は海軍技術研究所電子部にあって、電探の研究開発に全力投球した。
昭和17年4月に米軍機の東京初空襲があったが、房総と三浦半島に設置された電探は、まだ敵機を補足出来なかった。

この年軍艦伊勢と日向につけられた電探は、35Kmの戦艦は検知できたが、航空機は補足出来なかった。
この両艦はアリュ―シャン列島の作戦にでて、濃霧のなかを無事撤退することができた。

さらなる改良研究や量産に消極的だった艦政本部も、米軍がガダルカナル上陸作戦で使用した地形判別マイクロ波装置に驚き、漸く組織改正や予算増強にのりだした。昭和18年5月のことである。

陸上見張り用は、4号機までつくられ、それなりの実績を残した。
船艦装備の見張り電探は、潜水艦、海防艦、駆潜艦に使用された程度で終わった。
対空射撃用電探は英国式を模倣したが、実用化までに至らなかった。

伊藤らは、原爆や殺人光線の開発研究会「Z研究」を立ち上げたが、大風呂敷と批判された。
何とか島田技研の建設と人集めにこぎつけたが、終戦をむかえた。
しかしこれは戦後の復興に役立てられたという。


伊藤大佐は電探の開発で有名だが、米太平洋艦隊所属艦艇の発信電波を解析する算式、『"W"測定』(共同研究者である和智恒蔵大佐の頭文字を取って"W")の考案者の一人である。

この測定理論で、真珠湾作戦に先立って、在ハワイ太平洋艦隊の在伯状況を調査するのに利用され、伊藤大佐の電波伝播研究にも応用されていたという。
幕末から明治維新後に、日本が急速に電信技術を取り入れて、世界のトップレベルになっていたのに、昭和になって遅れをとったのは何故だろうか?

http://ereki-westjapannavi.blogspot.jp/2015/08/825.html

2017年8月11日金曜日

玄界灘沿岸の戦争遺跡と本土決戦


花田勝広氏は宗像出身で、奈良大学で考古学を学び、滋賀県野州市教育委員会で 銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)に関わり、郷里宗像の田熊石畑遺跡の保存運動にも積極的に参加し、「古代の鉄生産と渡来人」という著書などもある考古学者である。


沖の島の考古学的調査を行ううちに、島に残された戦争遺跡に歓心を持ち始め、2001年に防衛庁の資料公開が始まったのを契機として、玄界灘沿岸の戦争遺跡の調査をはじめたという。
2016年8月に「北部九州の軍事遺跡と本土決戦」という著書をだされ、2017年8月に古賀市の企画講演会でその概要を話された。




詳細なレジメ付きの講演で、私の19,20歳時代の歴史なので、興味深く拝聴した。その要点をわたしなりにまとめておく。





沖縄陥落後の本土決戦は、11月に米国は志布志湾上陸をオリンピック作戦と名付けて計画していた。日本軍部は宮崎海岸、吹上浜、北部九州の3ケ所を想定して、対戦計画をたてた。
私の知人で二人ほど小隊長として宮崎海岸の守備についたが、地元の守備は群馬、栃木の部隊だったようで、一人も知人がいなかった。
上の図の海岸線地帯には旧式の砲台と、塹壕がつくられて、散兵戦的な防備であった。津屋崎から福間、古賀、新宮の間に約14000人の兵士が配備された。
赤色に塗った奥地の宮田町あたりに戦車連隊の基地が設けられ、敵の上陸地点に向かって出撃する作戦であった。
その他、津屋崎飛行場が航空兵養成のためにつくられ、福間の山手には航空補給廠がつくられ、専用鉄道も引かれた。
当時の弾薬倉庫の一部が、今ものこっている。



地元古賀市でも小野小学校付近に通信隊基地、西小学校付近に砲台が設けられた。

しかし終戦とともに、砲台、塹壕、飛行場、建築物などはすべて撤去され、70年以上経過した現在では戦争遺跡として顕著に残っているものは殆どないのが実情だ。
畦町近くの高宮(古城跡)に、地下壕の排気口跡が残っている程度らしい。私も学徒動員で佐世保港の山奥に弾薬庫を掘った体験があるが、いまの姿が気がかりである。


沖ノ島にも砲台2基と弾薬庫、観測所、電信所などが築かれ、250人もの陸海軍兵士が駐屯していた。航空機時代となり、砲台の活躍する機会は全く亡くなり、8月には博多港まで大砲を運び、福間の手光地区に据える予定のときに終戦を迎えた。弾薬は食料補給が途絶えたので、魚を捕獲するために使われ、事故死もあったという。
神宿る神秘の沖ノ島として世界遺産に登録された現在は、戦争遺跡を残してはならない島となった。

2017年8月6日日曜日

出雲(装甲巡洋艦)との絆


現在は「いずも」と平仮名で書いた海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦 があるが、出雲(いずも)は日本海軍装甲巡洋艦で、六六艦隊計画(戦艦6、装甲巡洋艦6)の一艦としてイギリスに発注された。日露戦争第一次世界大戦支那事変に参加し、太平洋戦争で戦没するまでの45年間現役にあった。







古賀市との絆は、いま歴史資料館で展示されている「海からのメッセージ」で、もと石井館長が、海の中道の砂浜で見付けられた小さな杯である。

この杯の外側には、「大正10、11年世界周遊記念、戦艦出雲」と記載され、内側には世界地図が描かれている。

今年展示されたものは、10年以前のものより大分黒ずんだ色に変色していた。

そこで、「出雲」の戦歴や関連のエピソードをまとめてみた。

日露戦争では有名な上村彦之丞提督率いる「上村艦隊」の旗艦として参加し、殿(しんがり)艦を務めた姉妹艦磐手と共に活躍している。

第一次世界大戦が勃発すると、遣米支隊が編成され、出雲は旗艦としてアメリカ西海岸を防衛する任務に当たった。また、第二特務艦隊の増援部隊として地中海マルタ島に派遣され、中央同盟国潜水艦部隊による通商破壊から船団を護衛する任務に従事した。

戦後、御親閲式(第一次大戦の遣欧艦隊に対する閲兵)が行われた際には大正天皇が乗艦する御召艦(おめしかん)を務めた。

その後は練習艦として遠洋航海に6回参加し、士官候補生達を乗せてヨーロッパや米国など世界中を回った。その後の調査で、この周航に乗り組み員として参加されたかたが、古賀市にもおられたという。
杯のなかには前述のように世界地図が画かれおり、太平洋、アメリカ、パナマ、大西洋、イギリス、地中海、スエズ、インド洋、東南アジア経由の周航記念を示しており、隊員に配布された
記念杯の一つが、海の中道に漂着していたことになる。

支那事変に際しては第三艦隊旗艦として上海に派遣された。1937年に発生した第二次上海事変では、上海に停泊していた出雲が8月14日に中華民国軍爆撃機の攻撃を受けたが、軽巡洋艦川内と共に撃退している。同月16日には中国魚雷艇の攻撃を受けたが幸いにも無傷で済んだ。

1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日米が開戦したこの日に出雲は、上海で米国の砲艦「ウェーク」を拿捕、投降を拒否した英国の砲艦「ペテレル」を撃沈している。

当時のことを、西日本新聞に芥川賞作家林京子さんがエッセイで掲載された。
太平洋戦争開戦当時、上海の女学校に通っていた京子さんが、英会話で人気のあった英国人の先生と、この日を限りに別れた記憶の話である。昭和16年12月8日上海の守備についていた軍艦「出雲」を旗艦とする日本海軍は、降伏勧告をうけいれなかった英艦ペテレルを撃沈し、日英が敵対国になったためである。

エッセイでは上海で英艦を砲撃したのは「出雲」と思っていたが、その後の調査で、国産の駆逐艦「蓮」ということがわかったと林さんは書いている。英国製の「出雲」が英艦を撃沈したのでなかったのはせめてものすくいであると、林さんは思ったらしい。

(林さんは長崎市出身で、誕生の翌年、父(三井物産社員)の勤務地・上海に移住して育ち、昭和20年に帰国し、長崎高等女学校に編入学。同年8月9日、市内大橋にある三菱兵器工場に学徒動員中、被爆した。爆心地に近かったが奇跡的に助かった。)

戦争末期には、出雲に対空火器が増設されたが戦闘に出ることはなく瀬戸内海で練習艦として運用された。
1945年7月24日に呉軍港空襲で米艦載機の攻撃を受け、至近弾により転覆着底、3名が死亡した。小用港沖で戦没した戦艦「榛名」、姉妹艦「磐手」も同じく呉軍港で撃破されている。
広島県江田島市には、「出雲、榛名」合同の戦没者留魂碑が小用港沖を望む丘の上に建てられている。

NHKテレビので、この呉空襲をおこなったB-24爆撃機の1機で、撃墜された操縦士のなかの生存者が紹介されたのには驚いた。
機長だった彼は、その直後の広島の惨状を見せつけられ、東京まで移送されて尋問をうけるが、終戦となり解放されている。帰国後は農学部の教授になって活躍していた。

2017年8月2日水曜日

最澄・空海と縁のある花鶴川の三角洲


古賀市を流れる川は、大根川、谷山川、青柳川の三つが合流して、花鶴川となり、玄界灘に流れ込む。

花鶴川は最澄和尚が帰国した時、嵐のためこの川口に上陸した謂われがあり、河口の銅像がたっている。



この中でもっとも大きな川は大根川で、ダイコンガワと呼んでいる。

地形・地名の本によると、明治33年測図では、この川は清滝から流れくだり、薦野を過ぎると見えなくなり、熊鶴(現在の高速道路付近)で再び水路を形づくってながれていた。
米多比(ネタビ)あたりでは、河川としての明瞭な河床がなく、砂地と草原の混在した土手のない川原の状態だったようだ。
現在でも下流の久保地区では伏流水が湧き出て、水田に利用されている場所が2ヶ所ほどある。
http://blogs.yahoo.co.jp/gfujino1/18835132.html

地名のネは、山根や尾根を現すことが多く、ここでは尾根からの流れを尾根(オネ)と呼び、文字が大根(オオネ)に転じて、いつしか「だいこん」と呼ばれるようになったらしい。

弘法大師が近くの畑にいた農民に「大根」を所望したが、わけてやらなかったので、大師が怒って川のながれを止めたという伝説があるが、古賀市民には厳しい話だ。川沿いに銅像が建てられている。



近くには小野(オノ)の地名もあり、 米多もオネに近い田で、比は樋すなわち小さな水流を示す地名である。

この流域には須賀神社が、米多比、筵内、新原の3ヶ処にある。スカは砂地であり大根川のように土手のない河では氾濫であちこちに砂地が出来やすい。氾濫を治めるための祈願をこめた神社だったと思われる。
 

またこの神社に近くには、渓雲寺、浄土寺がそろっているから、このあたりに集落があったこともはっきりしている。

新原には別に宇多宮があり、ウタ、ムタは地形学では泥沼のことだから、やはり同じような地形だったことがわかる。少し下流の庄には綿津見神社があり、これは海神だから、この近くまで海岸がせまっていた証拠となる。

弘法大師が川の流れをとめたという伝説も、自然の変化で水流が変わったことから出来た伝説話であろう。


この地質から、地下水の一部が海岸近くで、千鳥池や、中川のような小規模な川となって現れる。

昭和28年6月には、大根川が氾濫して、流域に大水害が発生した。この復旧工事費用の負担問題から、古賀、筵内、小野の合併が促進されたという。

花鶴川は、大根川、谷山川、青柳川の3川が合流した川である。
谷山川は、谷山地区の農地を経由し、青柳川は久山町から小竹、青柳の農地を経由して、合流点以後は谷山川となる。
合流地点付近が錯綜しているので、地図では川の名前が間違っているものがある。


一つの調査方法として、橋の名前から川の名前を判断できると思う。そこで次の図のように橋の名前を記入してみた。

これで合流点(落合)から下流が花鶴川であり、その上流は大根川と谷山川ということがわかった。



花鶴川の河口に近い大根川には、大きな三角州がある。
古賀市役所の裏手にあるこの三角州は、正式名称は上屋敷という小字名である。

大正時代の地図にはないので、昭和になって水流改善のためバイパスがつくられ、三角州になったらしい。

古賀ふるさと見分けの会の環境活動で、この地区の整備計画がはじまっている。

大根川と谷山川の合流点にできた三角州なので、周辺には落合という小字名があり、三角州に渡る橋は落合橋であるが、上屋敷との境界などははっきり調べないとわからない。
私のすむマンションは、落合北2組である。
一部の突き出た三角洲の場所は、象の鼻とよばれている。



今まで市の埋蔵文化担当者が、古墳調査や花鶴浦の遺跡調査を行ったが、この周辺から埋蔵物は何も見つからなかったそうだ。

上屋敷という名前から、一時的に屋敷が存在していたのかも知れないが、洪水で水没しやすい場所だから、その後なくなったのであろう。10年前くらいの地図に小規模の建物があった記録があるが、現在は存在しない。

先日、市役所の3Fから眺めてみたら、三角地帯の周辺は堤で囲まれており、中はきれいな水田で青々と稲の穂がみのっていた。
古賀市は昨年7月この地区の河川整備要望書を県に提出し、県は「郷土の水辺事業」のなかで、何が出来るかをコンサルタント会社に調査をさせているいるところだという。


定例的な堤防の草刈や、河川清掃の助成金とは別で、また東屋やベンチなどの設置は対象外という。さてなにが出来るのだろう。

過去には、福岡県が平成7年に糟屋・宗像地区河川環境管理協議会を組織して河川環境の現状調査を行った記録があるが、その時には上屋敷地区については何もとりあげられていなかった。
古賀ふるさと見分けの会も、環境活動に助成金を出しそうな団体をしらべて、今後の活動を模索中という。(H22)


平成29年7月には、その工事の一部が、上の写真のように実施されたようだ。

古賀市役所近くの庄橋には水位局が置かれ、その情報を県河川防災情報で常時公開している。





2017年8月1日火曜日

オリンピック作戦

オリンピック作戦とは、米軍が沖縄攻略後に、九州南部への上陸を行う作戦の名前である。
目的は関東上陸作戦であるコロネット作戦のための飛行場確保であった。
作戦予定日はXデーと呼称され、1945年11月1日が予定されていた。
海上部隊は空前の規模であり、空母42隻を始め、戦艦24隻、
400隻以上の駆逐艦が投入される予定であった。
陸上部隊は14個師団の参加が予定されていたという。
もし原爆がなく、日本が本土決戦を行っていたら、どの時点で白旗をあげていただろうか?