平家の残党の中でもとくに有名なのが平景清。
平と名乗っているが、平家一門ではなく藤原秀郷の流れにある伊藤氏の人物。勇猛さで知られて「悪七兵衛」の異名をとっていた。
1195年、奈良で源平合戦中に平重衡によって焼き討ちされた東大寺の再建を祝う落慶供養に頼朝が参加したときに、暗殺計画を立て転害門あたりに潜んでいた。
しかし事前に察知されてあえなく捕縛される。
景清は命を助けられて身柄を預けられた和田義盛の屋敷内に預かり囚人となるが、景清はかなりやりたい放題。もてあました和田義盛は預かる役目を八田知家に代わってもらう。そこでもしばらくやりたい放題な振る舞いだった景清。
やがて親兄弟、平氏一門が続々と殺されて消えていったというのに自分はこんなやりたい放題でいいのか?と疑問に思い始めた。
そして洞窟に入って読経三昧の生活へ。八田知家が送り届ける食事にもろくに手を出さずひたすら読経を続ける日々。やがてその読経の声が少しずつ小さく、弱くなり、ついに命尽きて途絶えた。
そんな最期を迎えた場所が「景清土牢」または「水鏡景清」と呼ばれるスポットとして残っている。岩が自然と削られたのか人間が削っちゃったのか、もう洞窟の名残はどこにもなくて単にくぼんでいるだけのような場所。
この1195年の景清の死を最後に平家の残党の表立った活動もほぼなくなり、1199年には平清盛のひ孫の六代こと平高清が処刑され、同じ年には頼朝も死去。
ただこの人物には娘がいたとされる。歌舞伎で有名な白拍子阿古屋との間に生まれた「人丸」という娘。
この娘は捕らえられた父親に会うため鎌倉へ赴くものの対面は果たせず(歌舞伎では再会する設定だそうですが)。父の死後に出家してこの土牢があった地に「向陽庵」というお寺を作って父の供養に余生を捧げたとされている。
このお寺では景清の守り本尊とされる十一面観音像が本尊として安置されていたらしいが、それが現在は徒歩10分かかるかどうかの海蔵寺に保管されている。
そして人丸を祀る塚が鎌倉の大町にある安養院にありる。もともと扇ガ谷に葬られた人丸の墓をいつの時代にかこちらに移してきたものだとか。
安養院といえば北条政子のお墓があることで有名ですが、この人丸の塚は何の説明もない。
こうして鎌倉に景清の娘の名残を伝える史跡・遺物がある以上、謡曲や歌舞伎の話にもそれなりの史実の裏づけがあったのだろう。
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地元福岡にも、人丸神社があり、人丸姫の物語が伝承されている。
また球磨(朝霧町)や宮崎にも墓や神社があるようだ。
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