2019年2月11日月曜日

銅鐸の謎


日本の古代史のなかで、銅鐸に関する研究は一番遅れているように感じる。
先日のNHK番組で、珍しく銅鐸が取り上げられたたが、歴史的解析は浅いものであった。
製作技術の難しさは実験により確認されていたが、その使用目的、製作した民族、製作が中止された理由などは、表面的な解説であった。
手元の図書やネット検索で、銅鐸の謎を少しまとめてみる。

1)銅鐸の製作された時期:
弥生時代に製作されていたという文献が多い。NHKでは卑弥呼が製作を中止させたとしていたが、古墳時代まで製作されたとする説(藤森栄一、大羽弘道)もある。

2)製作の目的:
弥生時代は稲作が広がった時代で、これに関連した行事に利用されたと考える文献が多い。
日時計であった、金を精練した、さらには入浴用の湯沸しである、ユダヤの秘法に関係する……といった、珍説奇説もあるが、現在最も有力なのは、農耕祭祀(さいし)の祭器(さいき)として使われたという説である。
田植えの終わった後と、秋の収穫の後に、人々が鬼神を祭って昼夜休まずに歌い踊り酒をのんだ。このような祭で銅鐸は使われたのであろう。
鐘の音を鳴らす機能の構造だが、末期の大型のものは、絵文字による記念碑的な目的とも考えられる(大羽弘道)。

3)絵文字の解読:
稲作時代の田園風物詩、稲作作業の手順教科書などの説、豪族の歴史や業績の記録という説もある。
絵のなかには、米を保管する高床式(たかゆかしき)の倉庫、米搗(こめつ)きの情景といった農耕に関するものがあり、絵の動物の多くも稲作に関係すると考えられる。
弥生人が最も多く食べた動物はイノシシだが、銅鐸の絵画にはシカが最も多く登場する。奈良時代に編集された『播磨國風土記』には、シカの血に種を播くことにより稲がはやく発芽するという呪術的な儀礼が記されており、シカの生命力が稲の成育を助けるという信仰があった。またシカの角が毎年春に生え、夏秋と育ち、冬にはとれて落ちてしまうことを、植物の再生・成育・死と関係づけていた。



4)銅鐸を使用した民族:
銅鐸民族(中国の戦国時代を生き延びた難民)は大陸から侵入した後、縄文人の駆逐には成功したが、あくまでも銅鐸による情報伝達に固執し続け、文字文化にたどりつけなかったために、天孫族の前にあえなく壊滅したという説(臼田篤伸の説)がある。
このような一部の民族でなく、弥生民族のなかの、銅鐸信仰民族という考えが一般的である。

5)銅鐸の埋納:
銅鐸は、弥生時代末期(3世紀半ば)に忽然と消えたのはなぜだろうか。
銅鐸は、当時の集落から離れた、山の斜面のような所から特別な施設も作らずにそれだけ埋めた状態で出土することがほとんどなので、使用しない間、大地の生命力が宿るように銅鐸を土の中に埋めて保管していたと推定する研究者がいる。
銅鐸は破壊された状態で埋蔵されたものも多いので、ある時期から排斥されたと考えられている。
その後古墳時代となるが、古墳が銅鐸民族を虐げることが目的で築造されたという説もある。単なる大陸文化の流行変化への追従だとするのが一般的な考えであろう。


このように、銅鐸の祭祀や埋納についてはまだまだ不明な点が多く、これが解明されれば、弥生時代の社会のありさまが、より明確になるはずである。

宗像出身の花田勝広氏は、奈良大学で考古学を学び、滋賀県野州市教育委員会で 銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)に関わり、郷里宗像の田熊石畑遺跡の保存運動にも積極的に参加し、「古代の鉄生産と渡来人」という著書などもある考古学者である。一度地元で話を聞きたいと思う。

https://wpedia.goo.ne.jp/wiki/銅鐸
https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/45dotaku.html

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